第二章 濡れ衣のワンピース

 薄桃色のワンピースを保管袋に入れて脱衣所から出る。まだキッチンで黙考を続けていた警部に物証が出たことを伝えると、低い声は「そう」と感情なく返した。美濃は自らの推理の的中に満足したのか、終始余裕のある表情を浮かべている。
「警部、これからどうされます? 一応洗面所も確認しましたが、特に男物の洗面用具などはありませんでした」
「お疲れ様。じゃあ…撤収しようか」
 結局、被害者である堀川拓也がこの部屋に出入りしていた痕跡はなかった。しかし彼が所持していたのはこの部屋の合鍵で、しかも犯行時に犯人が着ていたらしき福まで出てきてしまったとなると、被疑者である八尋そよかの状況はますます悪くなる。
 201号室を施錠して、警部、私、美濃の順で階段を下りると、1階の廊下を小走りに去っていく少女の姿が目に入った。小学校高学年…あるいは中学生か。やや癖のついた腰までの黒髪に朱色のジャージ姿。今日は平日だが学校は休みなのだろうか…と、そんなことを思っているうちに小さな背中はそのまま奥の部屋へと消えた。

 朝顔ハイツを出ると、春の陽光が眩しい。現場を見たいという警部と共に私はそのままカメリア公園の出入り口の石段へ向かう。美濃は証拠のワンピースを吉田に届けたいからと、さっさと道路を渡って先に交番へと戻っていった。
 現場保存の黄色いテープの前には制服姿の老警官が立っている。
「あの、すいません。捜査協力している警視庁の者です」
 私が手帳を示すと、彼は笑顔で敬礼した。
「これはこれは、ご苦労様でございます。公園前交番の大隅でございます」
「捜査一課のカイカンです。こちらは部下のムーン。少し現場を拝見してもよろしいですか?」
「どうぞどうぞ、鑑識作業も終わってますんで。犯人も早々に捕まりましたんで、間もなくこのテープもはずされるでしょう」
「そう…ですね」
 私は無理に笑んで答える。普段自分も何気なく使っている「犯人」という言葉、それが胸の奥にチクリと刺さった。
「それにしても、本庁の捜査一課さんといえば、もっと大きなヤマを扱われるはず。どうしてまたこんな所轄の案件に?」
「少々縁がありましてね。では失礼します」
 テープをくぐる警部。私もそれに続く。近くで改めて監察すると、石段はかなり古い物だ。岩肌を活かしたデザインで多少ゴツゴツもしている。横幅は約2メートル、高さは五段、手すりはない。正直、大の大人が突き落とされる場所としては物足りないが、打ち所が悪ければ致命傷を負うこともあるだろう。その後、被害者の容態に関する連絡は入っていない。なんとか助かってくれればよいが。
「まだ信じられませんよ」
 テープの向こうからふいに大隅が言った。警部と私は同時に振り返る。
「あの京都弁のお嬢さんが、まさか犯人だなんて」
「彼女をご存じなんですか?」
 思わず尋ねた私に老警官は黙って頷く。
「時々交番の前を通られることがありまして、私がおもてに立ってると明るく挨拶してくれましたよ。とても感じの良いお嬢さんでした」
「事件の時は、大隅さんも交番にいらっしゃったんですか?」
「いえ、その時は警邏中でして。連絡を受けて急いで戻ったら、もう美濃ちゃんが犯人を逮捕したって聞いて、しかもそれがあのお嬢さんだなんて…びっくりしましたよ」
「美濃巡査も八尋さんと顔見知りだったんですか?」
 今度は警部が質問。
「それは…どうでしょうな。あの子がうちの交番に来たのは先月ですので、そんなに顔を合わせる機会はなかったんじゃないかと思いますが」
 そこで彼は照れ笑いを見せる。
「ハハハ、実はお恥ずかしながら私、もうすぐ定年でして。それで新人の美濃ちゃんが配属になったわけです」
「定年…そうでしたか。長い間、お勤めご苦労様でございました」
 警部が深々とお辞儀したので慌てて私も合わせる。
「そんなそんな、やめてください。本庁の刑事さんに比べたら、私の仕事なんてのんびりしたもんで」
「日本の治安が良いのは交番のおかげだそうですよ。大隅さんのような町のお巡りさんこそ、国民を守っていると思います」
 顔を上げて警部は告げた。その言葉が社交辞令でないことは私にもわかる。無礼極まりない格好をしたこの人ではあるが、敬意や誠意を持ち合わせていないわけではないのがまたややこしい。
「すいません、つまらん話でお仕事の邪魔をして」
「いえいえ。では」
 踵を返すと、変人上司はゆっくりと石段を昇り始める。踏みしめるように運ばれたその足はやがて最上段へ達した。
「うわあ」
 園内へ向かって低い声が感嘆。私も石段を昇って警部の横に立つ。やわらかい風に木々がそっと薫った。それほど広い公園ではないが、周囲を木が囲み、砂場、ブランコ、シーソーと昔ながらの遊具が並んでいる。そして私が推測したとおり、遊具を隔てる目印のように椿がいくつも植えられていた。まあこの季節なので当然花は咲いていないが。
 ただ警部が声を上げたのは椿に対してではない。最も目を引くのは公園のほぼ中央にあるジャングルジム、もっと正確に言うならその特徴的な形状だ。それは飛行機の形をしていた。農薬散布用の小型プロペラ機をさらにひとまわり小さくしたくらいのサイズだが、両翼を広げたその姿はまさしく飛行機。
「こいつはすごい」
 今は平日の昼間、園内に子供の姿はない。大人の散歩客なども特にいない。黄色いテープをくぐって園内に足を進めると、警部は吸い寄せられるようにジャングルジムへと向かった。そしておもむろに手と足を掛け、そのまま登ってしまうのだ。
「警部、何をなさってるんですか」
「たまには童心に還らないとね。ここがコックピットか」
 素通しの鉄棒で形成された操縦席に座ると、警部はコートのポケットから取り出した物体を口にくわえる。タバコではない。それはおしゃぶり昆布、これもまた今更ツッコミを入れても仕方のないこの人の習慣。
「ムーンよ、あれがパリの灯だ」
 私は嘆息して歩み寄る。ボロボロのコートにハット姿の大人が、ジャングルジムの飛行機ではしゃぐ光景はあまりにもシュールだ。近付いて見ると、左右に伸びる翼の部分は小学校の校庭にあったウンテイのようになっていた。思わず手を伸ばしてぶら下がりたい衝動にかられたが…いかんいかん、それでは変人上司と同類になってしまう。
「警部、リンドバーグごっこをしてる場合じゃありませんよ」
「紅の豚ごっこの方がいいかい? それともラピュタ?」
「そうではなくて…おわかりですよね、事態はかなり深刻です」
 変人上司は笑みを消す。
「そうだね。じゃあここまでの情報をまとめてみようか」
「はい」
 手帳のメモを見ながら私は続けた。
「八尋さんと堀川さんは、テレビの取材で知り合われました。そのドキュメンタリーが放映されたのは先月です。そしてそれが好評だったため、再放送に向けて改めてインタビューを行なったのが先週の水曜日」
「本当に素敵な番組だったよ。私ももう一度しっかり見たいなあ」
「続けます。八尋さんはそれ以降連絡は取り合っていないとおっしゃっていました。しかし、実際には昨夜、火曜日の午後10時10分に彼にメールを送っています。内容は『明日11時にうちのアパートへ来てください。大事な話があります。』。
 さらに、プライベートなつき合いはないとおっしゃっていましたが、彼のズボンのポケットには八尋さんの部屋の合鍵がありました。二人の間に男女のトラブルがあったと疑われてもおかしくない状況です」
「つまり、犯行の動機は存在し得るってことだね」
「はい。ただ八尋さんに嫌疑がかかっている一番の理由は、目撃証言です。犯行の瞬間を美濃巡査が目撃しています。オカッパ頭で小柄のワンピース姿の犯人は、公園の出入り口の石段から堀川さんを突き落とした後、逃走して八尋さんが住む朝顔ハイツに入っていきました。そして間もなくおもてに出てきたところを緊急逮捕。
 さらに先ほど物的証拠も出ました。彼女の部屋から、犯行時に着用していたと思われる薄桃色のワンピースが発見されたんです」
「動機に加えて証拠も十分ってことだね」
 昆布をポケットにしまうと、右手の人差し指が立てられる。
「八尋さんを犯人だと示す状況証拠・物的証拠は揃ってると言っていい。ムーン、君はどう思う?」
「それが…とても迷っています」
 私は素直に告白した。
「彼女を疑うには十分な状況であることは理解していますが、それでも彼女が犯人とは思えない自分もいて。しかし、どうして犯人だと思えないのかと言われたら、返す論拠はありません」
「フフフ」
 低い声が穏やかに笑う。そして前髪に隠れていない左目がそっとこちらを向いた。
「君もちゃんと人間みたいだね」
「どういう意味ですか?」
「ごめんごめん。いいかいムーン、この仕事で一番難しいのはまっさらに相手を見ることだよ。刑事も人間だ。人間には感情がある、先入観がある、考え方の癖が絶対にある。同じ物を見ても、人によって見える物と見えない物があるんだ」
 コックピットの機長はどこか嬉しそうだ。私にはわけがわからない。
「ベテランだからこそ見える物もあれば、見失っている物もある。ビギナーだからこそ見えない物もあれば、見える物もある。吉田警部補は経験豊富だからこその鋭い目を持ってるけど、逆に経験が多い分、無意識に型に当てはめようとしてしまっている。美濃巡査は新米だからこその一生懸命な目を持ってるけど、その分視野が狭くなってしまっている」
 立てられた指がパチンと鳴る。
「そして私たちも、八尋さんと知り合いだからこそ、どうしても優しい目になってしまっているのは否めない。自分の知り合いが犯罪者だなんて思いたくないっていう無意識の否認も働く」
「私の目は曇っているということですね」
「でも、知り合いだからこそ見えるものもきっとある。前にとあるお医者さんが言ってたよ。医者はどうしても患者になった後のその人にしか出会えない、だから病気になる前の姿を知ってる家族からの情報がとても大切なんだって」
 被疑者になる前の八尋そよかを私は知っている、だからこそ気付けることがあるということか。警部の言葉を胸の中で反復すると、かすかに何かが引っ掛かった感触があった。
 何だ? 私の知っている彼女と今回の事件の犯人、両者にはどこかに食い違いがある気がする。もどかしいが、その引っ掛かりが思考のどこで生じているのかまではわからない。
「みんな人間だからね。偏りなく人を見ることはできないさ。大切なのはちゃんとそれを自覚した上で考えることができるかどうか。偏って見ている部分をちゃんと差し引けるかどうかだよ」
 刑事はゆっくりコックピットを出ると地上に降り立つ。そして事件現場の公園出入り口の方を向いて宣言した。
「今必要なのは猶予だ。このケースは焦らない方がいい」

 道路を渡って一人で交番に戻ると、待ち構えていたように吉田が席を立った。
「ご苦労様です。あの、カイカン警部はどちらですか?」
「まだ現場にいらっしゃいますが」
「そうですか。あの、実はその」
 警部補は気まずそうに広い額に手を当てながら話す。窓際のデスクにいた美濃もそっと腰を上げてこちらを見た。
「実は、被疑者をそろそろ千代田署の方へ連衡しようかと思っているんです」
「そちらで取り調べを続けるんですか?」
「いや、被疑者は相変わらずの完全否認なんですが、署に連行してそれでも口を割らなかったら送検しようかと思いまして。被害者の持っていた鍵は八尋さんの部屋の合鍵だったわけですし、美濃巡査からワンピースの件も伺いまして、物証も十分ですから」
 隣に来て彼女も無言で頷く。わかっている、彼女を突き動かしているのは正義感や使命感だ。けっして悪意でそよかを陥れようとしているわけではない。逮捕した被疑者に十分な証拠が揃えば送検に踏み切るのも全くおかしくない。
「そういうことですので、この度はご協力ありがとうございました。カイカン警部にもよろしくお伝えください。ですのでどうぞ警視庁にお引き取りいただいて…」
「ちょっとお待ちください」
 吉田が話を終わらせようとするのを私は食い止める。
「被害者が八尋さんの部屋の合鍵を持っていたのは事実ですが、それは何か事情があってのことかもしれません。それに彼女は犯行を否認しているんですよね?」
 美濃がわかりやすく眉根を寄せる。
「それに、被害者を呼び出すメールも、パソコンをハッキングすれば第三者にも送ることが可能です。ちゃんと調べるできでは」
「はあ、そうですねえ。確かにそういう可能性もないわけではないですが…」
 困った顔で返す吉田。わかっている、私は強引な主張をしていると。それに所轄警察署の実情を思えば、きっと他にもやらねばならない業務は山積み。犯人が明白な傷害事件に多くの手間をかけたくないのだろう。 それでもこちらが本庁の刑事ということで、多分に気を遣ってくれているのだ。
「調べた方が…いいですかねえ。でもそこまで…う~ん」
 モゴモゴしている吉田を見かねたのか、美濃が一歩進み出る。
「あの」
 そして臆することなく言った。
「そこまでする必要ないでしょ。あたしはこの目で見たんですよ、あの人が被害者を突き落とすところ。あたしが嘘ついてるって言うんですか?」
「そういうわけではありません」
「じゃあどういうわけ? 知り合いだからかばうなんて、それは警察官の規範に反すると思います」
「こら、失礼だぞ」
 吉田が小声でたしなめても、メガネの奥の瞳はためらうことを知らない。
「本庁の刑事ならもっと冷静であるべきじゃないですか? 感情に流されて犯罪者をかばうなんて絶対おかしい」
「知り合いだからかばっているわけじゃありません。ただその、警部が」
「上司が言ったら黒でも白だって言うんですか? ワンピの証拠だって出てきたじゃないですか。これで犯人じゃないなんて無理あり過ぎですよ」
「そうですが、ただもっと慎重に吟味すべきだと。そこまでおっしゃるのなら、あなたからうちの警部を説得してください」
「わかりました、そうします」
 頬を膨らませたまま新米警察官は交番を飛び出していく。本当に警部を説得するつもりらしい。大した胆力だ。自分でそそのかしたこととはいえ、私も慌てて後を追った。
「あっ!」
 外に出た途端に彼女が叫ぶ。歩道に立ち尽くす制服の背中に「どうかしましたか?」と私は問った。
「け、警部さんが、石段から落ちたんです。ほら、あそこ」
 指差す先を見ると、ボロボロのコートにハット姿の男が石段の下の歩道に倒れている。私たちは急いで道路を渡って駆け寄った。
「大丈夫ですか、カイカン警部」
 呼び掛ける美濃。
「大丈夫だよ、美濃ちゃん」
 倒れていた男は両手をついてむっくり起き上がると、ハットを脱いだ。彼女の動きが止まる。そこに現れたのは、警視庁切っての変人の顔…ではなかった。
「どうして…」
 美濃が口の中で言う。
「びっくりさせてごめんよ」
 そう言ってコートも脱いだのは大隅。そう、定年間近の老警官だ。
「お怪我はないですか?」
 私が尋ねると、彼は「屁の河童です」と腰を上げる。
「これでも若い頃は、引ったくりと格闘して歩道橋から転がり落ちたこともありますからな」
 腰に手を当てて勇む彼の前で新米警察官は呆然。そこに頭上から不気味な笑い声が届く。
「フフフ」
 石段の上の木陰から現れたのは我が上司。ハットとコートを脱いだその姿は、黒いベストに白いワイシャツ…まるでフレンチレストランのソムリエのような出で立ちだ。しばらく見ていなかったので忘れていた。そういえばこの人のコートの下はこんな格好だったっけ。取り合わせが悪いにもほどがある。
「私が大隅さんにお願いしてやってもらったんです。騙すような真似をしてごめんなさい、美濃さん」
 低い声はゆっくり石段を降りて来る。
「でもこれで実感していただけましたね? 人間の目という物がいかに心の影響を受けやすいか」
 歩道に降り立った警部は右手の人差し指を立てた。
「あなたの心には私のコートとハットが印象に残っていた。だからその格好をしている人間を遠目に見て、私と同一人物だと認識した」
 意図に気付いたのだろう、彼女は悔しそうにまた唇を噛む。
「事件の時もそうです。犯人を目撃したあなたには、オカッパ頭、小柄、ワンピース姿という特徴が印象に残った。その後同じ特徴を持つ八尋さんを見て、同一人物だと認識した。もちろん同一人物の可能性もありますが、そうではない可能性も…」
 立てていた指がパチンと鳴らされる。
「十分あり得るということです」

「ちょっとやり過ぎだったんじゃないですか?」
 ハンドルを切りながら私は助手席に向かって問い掛けた。
「美濃さん、ショックを受けていたように見えましたよ」
「そうだね」
 答える低い声。
「ただね…八尋さんの送検を思いとどまらせるには、あれしか方法が思い付かなかったんだ。君にも嫌な役回りを頼んでごめん」
 私の役回りとは、美濃に警部の格好をした大隅を目撃させることだった。まあ実際は私が促さなくても、彼女はほぼ自分から交番の外に出てくれたのだが。
「それに、安易に人に手錠を掛けてはいけないってことは、新米のうちにしっかり思い知っておいた方がいいから」
「…そうですね」
 私がこのミットに着任した時、警部から一番最初に教わったのもそのことだった。人の身体を抑制したり拘束したり…それは本来なら許されない行為。自分に置き換えて考えればわかる、手錠を掛けられ自由を奪われることが、どれだけストレスの強いことか。身体にとってだけではない、心にとっても、与える恐怖や羞恥は計り知れない。
 しかし我々警察官は、被疑者を逮捕するためにそれを行なわねばならない。被疑者の中には冤罪の者もいる。何の落ち度もないのに手錠を掛けられた心の傷に対して、警察官は償う術を何も持ってはいないのだ。かといって逮捕に躊躇すれば犯罪者を取り逃がし、新たな被害者を生んでしまうのもまた事実。この仕事は、常に狂気と隣り合わせの葛藤の中にある。
「警部」
 少し間を置いて口を開く。
「知り合いだからという理由だけで、警部が八尋さんの送検にストップをかけたとは思えません。何か根拠があられるのではないですか?」
「君はどうだい? さっきの茶番に協力してくれたってことは、君にもこの捜査は慎重にすべきだと感じる根拠があったからじゃないのかな?」
 質問に質問で返されてしまった。
「それとも、単純に彼女への友情で動いてくれたのかな」
「違います」
 少し語気を強めて、私はひねり出した論拠を続ける。
「彼女と初めて関わった去年の事件を思い出したんです。あの事件の被害者の一人は彼女の親友で、土手の石段から突き落とされました。あの時強いショックを受けていた彼女が、同じ方法で犯行に及ぶとは思えません」
「ナルホド」
 警部はまたおしゃぶり昆布を口にくわえた。
「確かにそれは彼女の犯行を否定する心理的な根拠だね」
「警部には物理的な根拠もおありなんですか?」
「まあね。今からそれを確かめに行こう。いいかいムーン、行き先は…」

 私が車を滑り込ませたのは東京ピーチテレビ。そう、八尋そよかの勤務先だ。駐車場から警備員のいる通用口を通ってテレビ局の奥へと進む。事前に話を通していたのでスムーズだった…というより、そうしておかねばこの変人上司が中に入るのを許可されるはずがない。
「なんだかドキドキするね。有名人に会えるかな」
「どうでしょう。ここは社員のオフィスビルでスタジオではありませんから。警部、こちらのようです」
 案内板を頼りに少々複雑な廊下と階段を進む。向かっているのは番組製作部門の一つ。時々すれ違う業界人らしき者たちに会釈しながら、やがてその部屋が見えてきた。ドアは開け放たれている。
「警部、こちらです」
「よし。あの、すいませーん」
 そのまま足を進めると、八畳ほどの室内にはデスクが所狭しとひしめき合い、そのどれにもパソコンが埋もれるほどの書類やファイルが積み上げられていた。そよかの自宅のデスクと同じだ。さらに壁には番組名の入ったポスターやスケジュール表らしきもの、何やら不穏な折れ線グラフなど、これまた余白がないくらいベタベタ貼られている。
 そんな部屋にいたのは一人だけ、奥の大きなデスクで内線電話の受話器を耳に当てている女性。
「ああ、そういうことね」
 一瞬子供がいるのかと思った。その声はまるで幼い少女のもの、ちょっと失礼な言い方をすれば可愛いアニメキャラクターのようだった。
「じゃあカメラマンは変更でいいから、その代わり音声さんは彼のままでいきましょう。いや、わかるけど、今回は我慢して。今度お礼するから。ね、お願い。あ、そう? じゃあお言葉に甘えまーす」
 早口で言って彼女は受話器を置く。そしてこちらを見るとすっくと立ち上がった。淡い茶髪にやや褐色の肌、彫りの深い顔立ちは南国を思わせる。年の頃は30代半ば。女性にしては長身で深緑色のスカートスーツがよく似合っている。
「どうぞ、お入りください」
「失礼します。私、警視庁の…」
「カイカンさんですよね。そしてその部下のムーンさん。八尋から聞いてます。さあ、どうぞこちらへ」
 可愛い声がやはり早口で招く。時間がないのだろうか。デスクを挟んで目の前まで行くと、警部がさっそく会話を始めた。
「初めまして。八尋さんの上司の方ですね?」
「第2制作部の越前翔子(えちぜん・しょうこ)です。プロデューサーをしてますので、一応上司のようなものです。八尋が頻りに言ってましたよ、あなたを特集したドキュメンタリーを作りたいのにOKしてくれないって。企画書は私も読んで面白いと思ったんですが、あの子が口説き落とせないなんて、カイカンさんはよっぽど頑固なんですね」
「いえいえ、度胸がないだけですよ。あの、八尋さんとは長いんですか?」
「あの子がディレクターになってからはずっと一緒ですから、まあそれなりには。そこが八尋のデスクです」
 示された方を見ると、ひときわ目立って書類やファイルが積まれたデスク。ペンやティッシュ箱、カーディガンまで散乱していていかにも彼女らしい。それに比べて翔子のデスクは綺麗に片付けられており、ペン立てや写真立ても整然と並んでいる。
「今日は他のみなさんはいらっしゃらないんですか?」
 警部が室内を見回しながら尋ねる。
「取材だったりロケハンだったり、あとはオフだったりで午後は私だけです。最近はこの業界も働き方改革で、昔みたいにぶっ通しで泊まり込むなんてできませんから。
 それで、お話というのは何でしょう。八尋についてのことと伺いましたが。あの子も今日はオフですけど」
「はい、実は」
 警部が目で合図したので私から説明する。
「オフレコでお願いします。実は…」
 先月そよかが特集したドキュメンタリーに出演した寿司職人の堀川拓也、彼が本日何者かに石段から突き落とされたこと、現在病院で処置を受けていること、そして八尋そよかがその被疑者として警察に事情を聞かれていることなどを私は噛み砕いて伝える。翔子はしばし言葉を失い、不安そうに唇を人差し指で触った。
「まさかあの子が…」
 小さな声が漏れる。
「まだはっきりしたことはわかりません。あの、これは発表できない操作情報なのでくれぐれも」
「心得てます」
 唇から指を下ろして真顔に戻る彼女。
「遠慮ばかりしてたらスクープは掴めませんけど、踏み越えてはいけない一線はありますので」
 その瞳に厳しさが宿る。たった一つの報道で多くの人を救うこともあれば、人生に修復不能の痛手を負わせることもある。もしかしたらマスメディアの仕事も警察と同じくらい、あるいはそれ以上に狂気と隣り合わせの葛藤の中にあるのかもしれない。
「捜査にはご協力します。ですのでこれだけは正直にお答えください。八尋は…犯人なんですか?」
 私が返事に窮すると、隣から低い声が言った。
「わからないというのが正直なところです」
「可能性はあるということですか?」
「それはテレビキャスターの常套句ですよ。専門家に対して可能性はありますかと尋ねる。フフフ、この世に可能性がないことなんて滅多にありません」
 警部が少し笑うと、プロデューサーも表情を崩した。
「確かにそうですね。承知しました。何でもお尋ねになってください」

 警部と私は壁際のパイプ椅子を翔子のデスクの近くまで持ってきて着席。彼女が用意してくれたコーヒーを口に運びながら話を伺った。警部が特に確認していたのは、そよかが堀川とトラブルになる可能性について。番組制作のことで、あるいは痴情のもつれで、二人がもめるなんてことがはたしてあるかということだ。
「先ほどのカイカンさんの言葉に従えば、もちろん可能性ゼロなんてことはありません。ただ私は…ないと思います」
 翔子ははっきり答えた。
「上司の欲目と言われればそうかもしれませんが、八尋は芯の強い子です。あんなふうにキャピキャピしてますけど、自分の仕事に誇りを持ってて、どんなに上から要求されても誇りに反することは絶対しません。堀川さんのドキュメンタリーも、ちゃんと相手と綿密に打ち合わせをして作ったはずです。まして取材対象と男女の関係になるなんて、あの子に限っては絶対にないと思います」
「うちの警部に対しては、ハグしましょうとかしょっちゅうおっしゃってますけど」
 私が思わず言うと、彼女は苦笑。
「そういうとこがバカなんですよ、八尋は。負けん気が強くて、口ではそんなことばっかり言って。早く彼氏の一人でも作れって私も言ってるんですけどね。あ、まずいまずい。最近じゃこういう発言もコンプライアンス違反でしたね。でも、あの子がだらしない子じゃないのは私が保証します」
 少し遠い目で彼女はコーヒーを一口。そしてしみじみと続けた。
「前に被災地を取材したことがあったんです。その時も、大変な時にすいませんって何度も避難所の人たちに八尋は頭を下げてました。その上で、被災の実情を伝えることで視聴者に考えてもらうことができる、記録を残すことでまた同じようなことが起きた時の貴重な資料になる、そのための番組を作りたいって…あの子は被災者一人ひとりに説明してました。編成部からは早くしろってせっつかれたんですけど、避難所の人たちに了解が得られるまで、絶対に無断でカメラを回しませんでした。そういう子です」
「はい」
 警部も優しく頷く。
「八尋さんの正義感については私も同感です。八尋さんが仮に堀川さんと何かもめたとしても、彼女なら真っ向から話し合いをしたと思います。呼び出して石段から突き落とすなんて卑怯な真似はしないでしょう。
 あの、越前さんは堀川さんとご面識は?」
「ありません。私は企画書を見てゴーサインを出して、上がってきた編集のVをチェックして、放送前に最終の調整をするくらいしか関わりませんので」
「そうですか。あの、堀川さんの番組の録画を貸していただくことは可能ですか?」
「ええ、もちろん。一度テレビで流した物ですし、構いませんよ。八尋も持ってるはずですけど…あの子のデスクから発掘するのは大変ですから、今編集に頼んで用意させますね」
 彼女はリズミカルに内線のボタンを押すと受話器を耳に当てた。
「お疲れ様です、越前です」
 やはり声が可愛い。大人びた容姿の翔子がキュートボイスで、幼い容姿のそよかがハスキーボイス。二人の声を入れ替えればイメージにピッタリなのに…と、私は勝手なことを思ってしまう。
「いつもお世話になってます。え? またそんな…いやいやいや、そんなことありませんよ。それで一つお願いなんですけど、先月うちの八尋がディレクションした『はにかみ屋さんのお寿司屋さん』ってドキュメンタリーがあったじゃないですか。そうそう、今度再放送する…。あれを一枚ディスクに焼いていただけますか?。
 いやいやいや、そこまでしていただかなくても。マジですか? じゃあお言葉に甘えまーす」
 通話が終わる。受話器を戻すと、翔子は「ここに届けてくれるそうです」と警部を見ながら言った。
「ありがとうございます。あの、それまでにもう一つ伺ってよろしいですか?」
「どうぞ」
 彼女はまたコーヒーを一口。
「越前さんは、堀川さんの左手のことは…ご存じですか?」
「ええ、もちろん。八尋が彼に着目した最初のきっかけもそれでしたから」
 私だけ話に置いて行かれている。堀川の左手のこととはどういう意味だろう。困惑している私に気付いたのか、変人上司はちらりとこちらを見てからコーヒーのカップを置いた。
「あのねムーン、堀川さんの左手は…義手なんだよ」
 固まる私に、彼女も大きく頷いた。

「無口になってどうしたんだい、ムーン?」
 テレビ局を後にした車の助手席から警部が尋ねる。
「いえ、あの、すいません。被害者の左手が不自由だなんて、全く予想していなかったもので」
「君は直接事件を目撃したわけじゃないから当然だよ」
「それはそうですが、被害者の職業が寿司職人と聞いて、無意識に両手が使えるものと思い込んでいました。あの、堀川さんはそれでも仕事をしておられるんですよね」
「もちろん。最近の義手はよくできてるからね、テレビで堀川さんのドキュメンタリーを見た時もはっきりとはわからなくて、あれ、もしかしたらってくらいの感じだった」
「片手でお寿司を握る…そんなことができるんですか?」
「前にも目が見えないお医者さんがいるって話したでしょ。ベートーベンだって耳が聴こえなくなった後でも名曲をいくつも作ってる。パラリンピックの選手は言うに及ばず、情熱があれば何事もやってやれないことはないのさ。すっごく上手に握ってらっしゃったよ。君も後で越前さんに借りたディスクを見てみるといい」
「…はい」
 警部の明るい声とは対照的に、私の気持ちは沈みがちだった。自分の中にあった先入観…悪意の伴う差別感情ではないにせよ、まだまだ自分はこの世界のことを、人間のことを何も知らないのだと思い知らされた。一番難しいのはまっさらな目で人を見ること…そんな警部の言葉が頭でリフレインする。
「ムーン、落ち込んでる場合じゃないぞ」
 勢いよく右手の人差し指が立てられた。
「すいません。警部は堀川さんの義手のことを確認したくて越前さんに会いに行かれたんですか?」
「それだけが目的じゃないけどね、まずはそれが一番かな。八尋さんに訊いてもよかったんだけど、被疑者の証言だけじゃ不十分かなと思って」
「それで、このことで何かがわかりますか?」
「彼の左手が不自由だったとすると、一つ大きな矛盾が生じる。なんだかわかるかい?」
 私は頭の中でこれまでに見聞きした事件の情報を整理する。矛盾…どこかに食い違いがでるだろうか。お寿司が握れるのなら、スマートフォンを操作したり、部屋の鍵を開け閉めしたりも問題ないだろう。いや待てよ、鍵といえば…。
「あっ!」
 思わず声が出る。変人上司も嬉しそうに息を吐いた。
「わかったみたいだね」
「はい。被害者のポケットに入っていた合鍵ですね」
「入っていたのはどこのポケットだっけ?」
 そう、吉田警部補が教えてくれた情報だ。
「左のお尻のポケットです。左手が不自由な人間が、あえてそんな所に鍵をしまうとは考えられません」
 警部が立てていた指をパチンと鳴らす。
「大正解。となるとどうなる? 確かにあの鍵は八尋さんの部屋の合鍵だったけど、ポケットに入れたのは堀川さんじゃないことになる。となると入れたのは…」
「犯人ですね。犯人は堀川さんを突き落とした後、倒れた彼のそばにしゃがんでいたと美濃巡査が証言しています。その時にお尻のポケットに入れたんですよ、八尋さんに警察の疑いを向けさせるために」
「そういうことだ」
 胸の奥がほのかに熱くなる。これは物理的な証拠だ。そよかの無実を裏付ける一つの根拠になる。
「ムーン、このまま堀川さんが運ばれた病院へ向かってくれ。直接は無理でも、お医者さんから話が聞けるはずだ」
「了解です」
 私は勇んでアクセルを踏み込んだ。

 タイミングの良いことに、警部と私がその病院を訪れる少し前に、処置を終えた堀川拓也は無事に意識を取り戻していた。前額部を打撲し出血もしていたものの、幸い骨折や脳の損傷は見られなかったという。
「真正面から頭をぶつけておられますからね、まあ脳震盪による一時的な意識障害だったんでしょう。念のために、このまま入院はしてもらいますけど」
 院内の廊下。担当の白神はボリュームの多い髪を後ろで束ねた50代半ばの女医だった。面長の顔に柔和な目元が印象的。突然訪ねて来た謎の風貌の刑事に対しても穏やかに対応してくれる。
「あの、もう一つ教えてください」
 警部が彼女に確認すると、堀川の左前腕は間違いなく義手であった。
「堀川さんは長袖の上着を着ておられましたから、駆け付けた救急隊もすぐにはわからなかったようです。救急車の中で処置を行なうために袖をめくってやっと気が付いたみたいでしたよ。
 最近の義手は本当に精巧ですね。それこそ右手と比較してまじまじ見ないとわからないくらいで」
 患者の容態が回復してほっとしているのか、女医は屈託なく語る。警部はさらに尋ねた。
「堀川さんの右手の様子はいかがですか? 怪我などは…」
「ありません。運ばれてきた時にも、右手には傷も汚れも全くありませんでしたし、念のためにレントゲンも撮りましたけど骨折もなし、打撲も捻挫もなしです」
「それはよかった。あの、お願いなのですが、堀川さんに面会の許可をいただけませんか?」
 少しだけ考えてから白神は答えた。
「三十分程度でしたら。ただし患者さんがつらいとおっしゃったらすぐに中止してくださいね」
「わかりました。ありがとうございます」
「では、こちらにどうぞ」
 女医に導かれて廊下をさらに奥へと進む。やがて彼の名前が書かれた個室に着くと、ノックしてまず白神だけが入り、すぐに笑顔で戻ってきた。
「ご本人もOKだそうです。では私はごはんを食べて来ますので、何かあればすぐに呼んでください」
 髪を束ねていたゴムを解きながら去っていく女医。少し癖がついている黒髪の後ろ姿に警部と私は改めて一礼した。きっと処置に追われて昼食どころではなかったのだろう。働き方改革の理想と現実の落差はここでも大きいようだ。
「では、行きますか」
 頭を上げて低い声が言った。そしてノックに続いて入室。
「初めまして、白神先生からご説明があったと思いますが、警視庁のカイカンです。こちらは部下のむーん」
 上司の挨拶に合わせて私は肩越しに警察手帳を示す。ベッドで上半身を起こしていたのは、いかにも職人らしい精悍な顔立ちの男。その額には痛々しく包帯が巻かれているが、表情そのものは溌溂としており、何よりその瞳は生まれたての赤子のようにおびただしい生気に満ちていた。
「初めまして、堀川です」
「大変な時に押しかけてすいません。お加減はいかがですか?」
「まだぶつけたとこはちょっと痛いですけど、大丈夫です。何でも質問してください」
「助かります。ではさっそくですが…」
 警部が数歩ベッドに近付き、私も後ろ手にドアを閉めてそれに続く。
「被害に遭った時のことは憶えてらっしゃいますか? なるべく詳しくお伺いしたいのですが」
「はい、憶えてます」
 笑みを消す堀川。私は手帳とペンを構える。
「僕は八尋さんのアパートに向かっている途中でした。あ、八尋さんというのは先月僕を特集した番組を作ってくれたテレビのディレクターさんで」
「存じています。続けてください」
「はい。それでカメリア公園の出口まで来たところで八尋さんに『公園の出口に着きました。今から行きます』って電話を掛けました。そしたら八尋さん、急に来られても困るみたいなことをおっしゃったんです。自分で呼び出したのにおかしいなって思ったんですけど、その直後に背中をポンって押されて、そのまま石段から落ちたんです。頭をぶつけてそのまま気を失ったみたいで、目が覚めたら病院のベッドの上でした」
「そうですか。突き落とされた時、犯人の姿は見ましたか?」
「いえ。後ろを振り返らずにそのまま前のめりに落ちましたから」
「では犯人の特徴はいかがでしょう。どんなことでもいいです。何かお気付きになりませんでしたか?」
 彼は黙って右手を顎に当てる。見ると左手は布団の中のままだった。
「小柄な人…かもしれませんね。もしかしたら女の人かも」
「どうしてそう思われるんですか?」
「押された位置が背中の下の方でしたし、多分両手で押されたと思うんですけど、小さい手のひらだったような気がするんです。先ほどポンって押されたと表現しましたけど、ドンっていうよりはポンって感じがしたんです。まあ一瞬のことなんであんまり自信はないですけど」
「ナルホド。他にもいくつか教えてください。八尋さんのアパートには以前にも行かれたことがあるんですか?」
「いえいえ、ありませんよ。ただカメリア公園の南の出入り口からすぐの所のアパートだって前に聞いてたんです。あ、僕もあの辺りに住んでるんですよ。僕が住んでるのは北の出入り口の方ですけど」
「それで公園を抜けて八尋さんのアパートへ向かわれたわけですね」
「はい。いやまさか、こんなことになるなんて」
「八尋さんに呼び出された、と先ほどおっしゃいましたが」
「昨日の夜に彼女からメールをもらったんですよ。今日の11時にアパートまで来てほしいって。もちろん彼女の部屋に入るって意味じゃなくて、アパート前で待ち合わせてそこから喫茶店にでも行くのかなって思ってたんですけど」
「八尋さんは何の用件で会いたいと?」
「それはメールには書いてなかったですね。でも先週インタビューを受けたんですよ。先月のドキュメンタリーが全国放送で再放送されることになったから、ネット記事にするために追加でお話を聞きたいって言われまして。だから今日もその記事のことかなと思ってたんですけど。ほら、八尋さんって仕事に妥協しない人ですから。
 でもさっきも言いましたように、公園の出口から電話したら、八尋さん、呼び出したのを忘れてるみたいなリアクションで。石段から落ちて通話も途切れちゃったから、きっと心配してますね」
「それは大丈夫です。ご安心ください」
 穏やかに言う警部。私はメモを走らせながら考える。
 今のところ堀川の証言に矛盾は感じない。彼は純粋に送られてきたメールに従ってそよかを訪ねただけらしい。
「失礼なことを伺いますが、どなたかに恨まれている、ということはありますか?」
 低い声は別の角度での質問に入った。被害者はまた右手を顎に当てて黙考する。
「特には…思い当たりませんね。むしろみなさんによくしてもらって僕は働けてますので。やりたい仕事ができて幸せですよ」
「お寿司屋さんが夢だったんですか?」
「ええ、まあ」
 緊張していた表情が崩れて可愛いはにかみが浮かぶ。そして彼は子供の頃から寿司職人に憧れていたこと、高校卒業後に弟子入りして苦節十年、もうすぐ独り立ちというタイミングで交通事故に遭い左前腕を失ったこと、それでも師匠や仲間に励まされて改めての修行を開始、さらに五年の歳月を費やして片手での主義を習得、自分の店『感謝寿司』を出したのが今から三年前であることなどを語った。きっと人一倍どころか、五倍も十倍も努力してきたのだろうがそんなことは言わず、彼の言葉は師匠や仲間、そして自分の店に来てくれるお客たちへの感謝で溢れていた。店名もきっとそんな気持ちの表れなのだろう。
「そうだ、入院してる間はお店を休まなくちゃいけないから、魚屋さんに電話しておかないと」
 いつしか病室には穏やかな空気が漂っている。
「えっと僕のスマートフォンは…」
「すいません、現在警察がお預かりしています」
 キョロキョロする寿司職人に私は伝えた。
「そうなんですか。まいったな。どこかに公衆電話はありますかね」
「電話を借りられるように、私から白神先生に頼んでおきますよ」
 と、警部。できればこのまま和やかな会話を楽しみたいが、そうもいかないのが刑事の宿命。ふと腕時計を見ると許可された時間はもう残り五分を切っていた。
「警部、そろそろ時間が」
「おっと、そうだね」
 変人上司は笑みを消す。
「最後にもう少しだけお尋ねします。堀川さん、被害に遭われた時の所持品を教えてください」
「所持品ですか。えっと、財布と、家の鍵と、店の鍵と…」
 彼も真顔になって丁寧に答える。ただし挙げられた物品にはそよかの部屋の合鍵は出てこない。
「ズボンのお尻のポケットには何か入れてらっしゃいましたか?」
「時々右のポケットにスマートフォンを突っ込むことはあります。あ、でも突き落とされた時はスマホを右手に持ってたんで何も入ってません」
「左のポケットにはいかがですか?」
「左には何も入れません。このとおり、左手が不自由なものですから」
 彼はひょいと布団の中から左手を挙げた。確かに精巧な義手だ。かつてのようにいかにも造り物という義手・義足しかなかった時代と比べると、装着する者の心理的負担も軽減されているだろう。技術の進歩とは本当に素晴らしい。ただそうなると、今度はその精巧な義手や義足を悪用してそこに麻薬を隠して密輸しようとしたり、カメラやマイクを仕込んでよからぬことをしようとしたりする連中も出てきている。この仕事は人間のそんな愚かしさ・あさましさをいくつも見せつけられるのだ。
「そう…ですか」
 低い声は少し考えてから言葉を続ける。
「実は左のポケットに一本の鍵が入っていたんです。調べた結果、それは…八尋さんの部屋の合鍵でした」
 堀川は無言で目を丸くする。
「お心当たりはありますか?」
「いえそんな、全く…わけがわかりません」
「八尋さんのお部屋に行かれたことは?」
「ありません。そう言ったじゃないですか。もちろん合鍵なんて渡されてません」
 大きくかぶりが振られる。警部は右手の人差し指を立ててさらに一歩ベッドに歩み寄った。
「では八尋さんとは個人的なおつき合いはない、ということでよろしいですね?」
「はい、ドキュメンタリーで特集してもらっただけです」
「その際にもめ事などは?」
「一切ありません」
 即答だった。そして彼はこれまでで一番力強く答えた。
「八尋さんは誠意を持って番組を作ってくださいました。僕は満足していますし、全面的に信頼しています。もめ事なんてこれっぽっちもありません」
 その真意を見極めるように、警部はじっと寿司職人を見る。そしてすっと立てていた指を下ろし、口元を緩めた。
「よくわかりました。ご協力に感謝します。ムーン、失礼しようか」
「はい」
 ドアへ向かう上司に従い私も手帳をしまう。
「魚屋さんへのお電話のことはちゃんと伝えておきますので」
「ちょっと待ってください」
 呼び止める堀川。
「刑事さん。どうしてあの人の部屋の合鍵が僕のポケットに? それにさっきの質問はどういう意味ですか。僕とあの人の間にもめ事はなかったかって…まさか、八尋さんを疑っておられるんですか?」
 警部はドアノブに伸ばし掛けた右手を戻す。
「八尋さんは…」
 一度言葉を止め掛けて低い声は続けた。
「八尋さんはあなたを突き落とした容疑で逮捕されました」
「そんな!」
 狭い室内に小さな絶叫が響く。
「そんな馬鹿な。有り得ませんよ。あの人はそんな人じゃありません」
「犯行を目撃した人がいるんです。あなたも、背中を押したのは背の低い人物だとおっしゃった」
「でも、八尋さんがそんなことするわけない。言いましたよね、僕は全面的に信頼しているって」
「どうしてですか?」
 思わず尋ねたのは私。
「赤の他人を全面的に信頼するなんて…なかなかできないことだと思いますが。どうしてあなたはそこまで彼女のことを?」
「それは…その」
 彼の言葉がもたつく。そこでドアの向こうから「刑事さん、そろそろ時間です」と白神の声。
「すいません、今出ます」
 警部が答えた。そして最後にもう一度彼に向き直る。
「堀川さん、私たちも事実を明らかにしたいと思って捜査をしています。なのでもし、何か思い出したことがあればいつでも連絡ください。お願いします」
 そのままドアを開けて廊下へ出る警部。私も一礼して退室。ドアが閉まる直前、ベッドの上の男は異世界に紛れ込んだような困惑を浮かべていた。

 ようやくの昼食は病院の売店で買ったおにぎり。この仕事も働き方改革にはほど遠い。
「これからどうされますか?」
 食べ終わってから尋ねると、低い声は答えた。
「捜査のセオリーに従おう。八尋さん以外の容疑者を洗い出すんだ」
 警部と私は堀川の関係者を当たることにした。警部は徒歩で彼が商う寿司店の周辺住民を、私は車で彼に寿司職人の手ほどきをした師匠や仲間たちを回る。
 しかし彼はみんなに慕われていたようで、恨みを持つ人間はおろか悪く言う者すら一人もいなかった。特に彼を育てた師匠は「うまい寿司はいい奴にしか握れねえ」が座右の銘らしく、堀川の人間性を高く評価していた。

 日も沈んだ夕刻、警部と合流して向かったのは千代田書。八尋そよかの身柄は、カメリア公園前交番から現在こちらへ移されている。
「相変わらずの完全否認ですよ」
 面会室への長い廊下、吉田警部補は苦々しげに言いながら警部と私を案内してくれた。
「事情聴取してても埒が明かないんで、先ほど被害者に面会してきました。お二人の方が先に来てらっしゃったようですが」
「すいません、出過ぎた真似をして」
 低い声が答える。
「いえいえ。それで何か目ぼしい話は聞けましたか?」
「残念ながら。その後でムーンと手分けして関係者も当たってみましたが、堀川さんに動機を持つ人はいませんでした」
「こちらも収穫なしです。やはりあのテレビディレクターさんとの地上のもつれと考えるのが妥当じゃないですかね」
「…まだわかりません」
 間もなく目的の扉にたどり着く。
「ここです。それでは、面会終了の時刻が迫ってますのでお手短に」
「ありがとうございます」
 再び長い廊下を去っていく吉田に警部と私は一例。そしてそのノブを引いた。
「カイカンはん!」
 途端に明るいハスキーボイスが飛ぶ。
「会いに来てくれはったんですね。こんなんがなかったら再会のハグをしたいわあ」
 彼女は自分とこちらを隔てるガラス板をコツコツ叩いた。
「気分はいかがです?」
「思うたよりも快適です。シャワーとかスポーツジムとかもあって、ちゃんとプライバシーも守ってくれはりますし。このまましばらくここにおってもええかな」
 またのん気なことを。私は溜息に続いて答える。
「それはここがまだ留置場だからです。わかってますか? もしこのまま容疑が晴れずに送検されたら次は拘置所に入るんですよ。そうなったらこんなに自由にはしてられません」
「そない恐い顔せんといてください。これでもサスペンスドラマに携わったこともありますからちゃんとわかっとります。逮捕されてもうたら四十八時間以内に送検されるんやろ。うちの猶予はあと四十時間くらいや。
 そやけどムーンさん、おんなじ時間やったら悩んで過ごすより楽しく過ごした方がええやないですか」
 彼女の瞳がこちらを向く。節義をたたえた漆黒。同じ逆境なら悩むより楽しむ…それが数々の苦難を乗り越えてきたこの女の節義。私は反論できなかった。
「時間もあまりないので本題に入りましょう。あ、堀川さんの容態についてはお聞きになりましたか?」
 警部の問いにそよかは「なんも」と返す。
「無事でいらっしゃいます。意識も戻り、命に別状もありません」
「ほんまですか!」
 甲高い声を上げると、彼女の小さな体躯は脱力したようにそのまま椅子に崩れる。
「そう…そうなんや。よかった、ほんまによかった。お天道様に感謝せな」
「なのでそちらについてはご安心ください。あなたが今案じるべきは、自分の身の上だけです」
 警部はガラス板を挟んで着席。そよかが堀川の無事を喜ぶ顔…それはとても演技には見えなかった。私も隣に腰を下ろし、そっと手帳とペンを構える。
「ではさっそくお尋ねします」
「なんでも聞いてください、カイカンはん。あ、スリーサイズはまだ内緒ですよ」
「そういうのはいいですから。これまでにお部屋の合鍵をどなたかに渡しておられますか?」
「合鍵ですか? ああ、堀川さんのポケットから出てきた鍵はやっぱりうちの部屋の合鍵やったってあの吉田っちゅう刑事さんが言うてはりましたね」
 そよかは小さく嘆息。
「そうやなあ、うちはモテモテやから、部屋に出入りしとる男は十人、いや二十人は下らんかなあ」
「時間がないんです。冗談はなしで。これは正式な聴取です」
 圧力を増した警部の声に、さすがの彼女も笑みを消す。
「すいません。大家さんから合鍵は二本もろうたけど、一本は実家の親に渡して、もう一本はうちが持ってます。部屋のデスクの引き出しに入れとって、誰にも渡してません」
「ご家族以外にお部屋に出入りする方はおられますか?」
「おらしません。仕事が忙しゅうて、部屋にはほとんど寝に帰るだけやし。あ、そうや!」
 突然声を上げるそよか。
「カイカンはん、うちの部屋に入りはったんですよね。ムーンさん、ちゃんとその前に服の片づけはしてくれはりましたか?」
「片づけるほど散らかってませんでしたよ。心配されてた衣類はちゃんと洗濯機に入ってましたし」
 私の返事に彼女は「あれ、そうやったかな」と怪訝な顔。
「衣類といえば、ワンピースの件はお聞きになりましたか?」
 低い声が聴取を続ける。
「あの吉田っちゅう刑事に現物を見せられました。薄桃色のワンピース…確かにあれはうちのもんやけど、堀川さんを突き落とした時にうちがあれを着とったなんて濡れ衣もええとこです。うちは今朝からずっとこの薄水色のやつを着とるんやから」
「では、犯人がよく似た薄桃色のワンピースをたまたま着ていたということでしょうか」
「そういうこと…なんやろか。ひょっとして犯人はうちの大ファンで、うちとそっくりの格好をしとったとか」
 彼女はまたケラケラ笑うと、慌ててそれを止めた。警部は腕組み。少し待っても言葉がないので私が口を開く。
「八尋さん、誰かに恨みを買っている心当たりはありますか?」
「なんやの、藪から棒に。うちが襲われたわけやないんですよ?」
「わかっています。ただ、今のあなたの言葉で思い付いたんですよ。あなたが犯人でないとして…」
「うちは犯人とちゃいます」
「黙って聞いてください。あなたが犯人でないとして、偶然あなたと容姿がそっくりな人物が犯人だった、というのはかなりの無理筋です。背格好だけでなく、髪型や服装までぴったり一致するとは考えられません。ただし、あなたが今おっしゃったように、犯人があなたに変装していたと考えれば筋が通ります」
「そんなアホな。冗談きついわ。変装やなんて、怪盗ルパンやあるまいし」
「意図的にあなたとそっくりな格好をしていたということですよ。もちろんあなたのファンだからという理由ではありません」
「ほならどんな理由ですのん?」
「あなたに罪を着せるためです。あなたに変装して堀川さんを突き落とし、あなたの住んでいるアパートへ逃げ込めば、目撃情報から当然あなたが疑われます。もちろんアニメのように瓜二つに変装することは不可能ですが、オカッパ頭とかワンピースとか、目立つ特徴を模倣することは可能でしょう」
「ムーンさん、うちのチャームポイントをディスってはります?」
「茶化さないでください。堀川さんのズボンのポケットに入っていたあなたの部屋の合鍵も、あなたに疑いの目を向けさせるための犯人の偽装だとすれば筋が通ります。
 ですからしっかり考えてみてください。あなたに恨みを持っているような人はいませんか?」
 そよかの表情にこれまでとは違う色の不安が浮かんだ。
「そないに言われても…うち、人から恨まれるようなことしてまへんえ。こういう仕事やから業界にライバルはおるけど、そんな濡れ衣を着せるほど…。そうや、うちを恨んどるんやったらうちを襲えばええやないの。わざわざ堀川さんを襲って罪を着せるとか、まどろっこし過ぎるわ」
 私は言葉を止める。それもそうだ。やはり犯人の標的は堀川と考えるべきかもしれない。でもそれならどうしてわざわざ犯人は彼女に変装を?
「八尋さん」
 急に声を発する警部。組んでいた腕を解いて人差し指が立てられる。
「どういう経緯で堀川さんのドキュメンタリーを作ろうと思われたんですか?」
「それは彼のお寿司が…」
 言い掛けて彼女は言葉を取り換えた。
「いや、正直に答えなあきませんね。うちの仕事はネタ探しの毎日です。何か番組のネタになる人とか、団体とか、出来事とか、そういうのがないかなあっていつも探しとります。堀川さんのことも、たまたま雑誌で記事を見て…隻腕の寿司職人がおるって。それでネタになるかもしれへんって思うて、夕食がてらお店に行ったんです。
 そやから最初は、片腕でどうやってお寿司を握ってはるんやろっていう興味本位でした。堀川さんには失礼なことやったなあって反省してます。そやけど、一口お寿司を食べたらほんまにほんまにおいしくて、これは絶対に特集せなって思うたんです」
「そんなにおいしいんですか」
「食べたらカイカンはんもたまげますよ。ほっぺたが落ちるかと思いました。あんなにおいしい料理は、ヨシコママの元気焼きそばと、キーヤンカレーくらいです」
 ヨシコママというのは京都でスナックを経営している彼女の恩人。昨年の事件で私もその店を訪れたが、隠し味の天才と言われるだけあってその料理の腕は確かだった。懐かしい味が浮かんだのか、そよかは無邪気で優しい顔になる。まったく、いつもそんな顔をしていればいいものを。
「そうだ、重要な質問を忘れていました」
 警部がガラス板に向かって身を乗り出す。
「お部屋に入った時、とても気になることがあったんですよ。八尋さん、重要な質問ですのでしっかり答えてくださいね」
 前髪に隠れていない左目が真剣な眼差しになる。いよいよ事件の核心に迫るか。
「キッチンのテーブルの上にあったレトルトカレーは…キーヤンカレーですね?」
 思わずペンを落としそうになる。またそっちの話かい!
「はい、そうです。カイカンはんも大好物のキーヤンカレーのレトルトです」
 そよかも胸の前で両手を合わせて食いつく。
「いつ発売になったんですか?」
「先月末です。前から噂は聞いとったんやけど、この前お店に行ったら置いてあって。しかも大人気でもう最後の一個しかなくて、迷わず買いました」
「そうでしたか。いやあ、うらやましい」
「エッヘン、これだけはカイカンはんにも譲りまへんえ。自慢自慢」
 留置場にいるのにうらやましいも自慢もあったもんじゃない。呆れる私を無視して二人は盛り上がる。
「ああ、思い出したらまたお腹が空いてきた。そうや、ほんまならお昼ごはんにあれを食べようと思うて準備しとったのに」
「やはりそうでしたか。それでごはんも炊いてらっしゃったんですね。私とムーンがお部屋に入った時、ちょうど炊きあがりのアラームが鳴ったんですよ」
「え?」
 そよかがきょとんとする。
「カイカンはん、今なんて言わはりました?」
「ですから、私とムーンがお部屋に入った時にご飯が炊きあがったと」
 被疑者はそっと右頬に手を当てる。何かが腑に落ちないらしい。
「お二人がうちの部屋に行ったんは12時過ぎてからでしたよね」
「はい。交番でお話をした後です」
「それやったらおかしいわ。うち、炊飯器のボタンを押したんは11時なんです。いつも休みの日は11時ジャストに押すんです。押した直後に堀川さんからの電話が鳴って、そのままおもてへ出たから間違いあらへん。
 そやけどお二人がうちの部屋に入ったんは12時過ぎ…正確な時刻はわかります?」
「はい。ムーン、炊飯器が鳴った時に私が君に時刻を尋ねたよね。何時だったっけ?」
「12時20分でした」
 私が答えると、そよかはさらに頭を抱える。
「今日はうち、お米を3合セットしました。あの炊飯器は学生時代から使っとる古いもんやから炊きあがるのに時間がかかるんやけど、それでも五十分くらいです。でも11時にボタンを押して12時20分に炊きあがったんやったら八十分、いつもより三十分も余計にかかっとる。どういうことやろ」
「やはりそうですか」
 警部の口元から笑みが消える。
「私もそれが気になっていたんですよ。八尋さんが逮捕される前にボタンを押していたとすると、炊きあがるのに時間がかかり過ぎじゃないかって」
 言われてみればそのとおりだが…私は全く気にしていなかった。うちの炊飯器も3合なら約四十五分で炊きあがる。八十分というのはいくらなんでもかかり過ぎだ。
「古い炊飯器なら、壊れてしまったんじゃないですか?」
「失礼やなムーンさん、古いけど大切にしとります。ごはんを炊く前には必ず中だけやのうて外もピカピカに磨いて、ごはんの神様に感謝してからボタンを押すんです。おいしく炊けますようにって」
「どんな神様ですか。だったら12時20分に炊きあがるようにタイマーをセットしていたとか」
「タイマーやなんて、そんなわずらわしいもんは使いまへんえ」
「そもそもどうして炊飯器を床に置いて使ってるんですか?」
「何を言うてはりますのん、炊飯器は床に置いて使うもんやないですか。そこからお母さんがお茶碗によそってくれて、それをちゃぶ台で食べるんが日本人の心どす」
 昭和の時代ならそうかもしれないが…いやいや、この女のこだわりと不毛な議論をしていても意味がない。
「フフフ」
 そこで警部が不気味に笑う。確かにごはんが炊けるのにいつもより長い時間がかかったのは不思議だが、それが何か事件の真相と関係あるのだろうか。私にはおおよそ結びつきそうもない情報に思えたが、変人上司の左目は輝きを増している。
「でもどういうことやろ。炊飯器がほんまに壊れてもうたんやろか」
「ごはんはおいしそうに炊けていましたよ」
 低い声は弾んでいる。見つけたのだ、事件を解き明かすための『取っ掛かり』を。

 間もなく面会終了時刻が訪れる。警部と私はゆっくり腰を上げた。
「では八尋さん、今夜は慣れない場所でお休みになるので大変と思いますが…」
 私が一応労いの言葉を向けると、そよかは「大丈夫や」とガッツポーズを返す。そしてピョンとジャンプして立ち上がった。
「テレビマンやから、ソファでも床でもどこでも眠れます」
「そうですか」
「その代わり、疑いが晴れて釈放されたら、おいしいものおごってください」
「えっと、それは…」
 答えにもたついていると隣の警部が笑う。
「ハハハ、さすがは八尋さんだ。了解しました。その時は私のおごりで打ち上げしましょう」
「やった、お言葉に甘えまーす!」
 無邪気にまた胸の前で手を合わせるそよか。そこで立ち去りかけた警部が足を止める。
「そういえば、昼間に東京ピーチテレビの越前さんに会いに行ったんですが、越前さんも同じく電話の相手に『お言葉に甘えます』っておっしゃってましたね」
「翔子さんに会いに行きはったんですか? はい、この言葉は新米の頃に翔子さんから教わったんです。取材の許可をもらった時には、この言葉を返すんが一番ええからって。他にもたくさん、業界のことを教えてもらいました」
「尊敬してらっしゃるんですね」
「うちにとってはテレビ業界のお母さんみたいな人ですから。それを言うたら、お母さんの歳やないって本人はふくれてましたけど。
 そうなんや、会いに行きはったんですね。翔子さん、何か言うてはりました?」
「あなたのことを信じてらっしゃいましたよ。微塵も疑っておられなかった」
「そう…なんや」
 感謝半分、陳謝半分の顔が浮かぶ。そして名プロデューサーに育てられた名ディレクターはもう一度ガッツポーズをしてみせた。
「こうなったら、ここにおる間にもええ番組企画を考えます」
「留置場にいる時くらいゆっくりしたらどうですか」
「いえいえムーンさん、働き方改革です。カイカンはん、また翔子さんに会う時は伝えてください。あんたの娘はこの程度じゃビクともしませんって」
「…わかりました」
 低い声は優しく返す。とんだ働き方改革もあったものだ。ただそれよりも私は、彼女の口にした「娘」という言葉に一人の少女の存在を思い出していた。
「そういえば」
 そして思わず口にする。
「八尋さんのお部屋にお邪魔した時、小学校高学年くらいの女の子がアパートの廊下にいたんです。ほら警部、憶えてませんか? 2階から1階に下りた時に」
「ああ、廊下を小走りに去っていった朱色のジャージを着た子だね」
「はい。実は、八尋さんのお部屋に後から来た美濃巡査を招き入れる時にも、階段の踊り場の方で小さな影が動くのが見えたんです。もしかしたらあれもあの子だったんじゃないかなと思いまして。
 八尋さん、ご存じですか?」
「ひょっとして、つぼみちゃんやないかな」
「それは誰です?」
 警部が再び彼女に向き直る。
「大家さんの娘さんです。ちっこいけど小学生やのうて中学生。うちも何度か廊下やアパートのおもてで立ち話をしたことあるわ。腰までのストレートの黒髪が綺麗な子」
「ムーン、何かあの子が気になるのかい?」
「そういうわけでは。ただ、私たちの様子を気にしているような感じがしたもので。それに平日の昼間なのに学校に行っていないみたいでしたし」
「しばらく…休んどるみたいや」
「どうして休んでるんですか?」
 尋ねる私。漆黒の瞳は逸らされる。
「よう知りません」
「八尋さん、その子のフルネームはわかりますか?」
 今度は警部が尋ねる。ハスキーボイスはわずかにためらいを見せて答えた。
「下田…下田つぼみちゃんです」
 その言葉を最後に、面会時間は終了した。