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やや窮屈ではあったが、警部と吉田、そして私が着席する。机を挟んだ対面には八尋そよか。その小柄な体躯と薄水色のワンピース姿は一見あどけない印象を与えるが、これでも彼女は東京ピーチテレビでいくつもの番組を手掛けてきた敏腕ディレクターである。どうして警部と私がそんな業界人と面識があるかというと、昨年の秋、彼女が警部をテレビで特集したいと警視庁に取材を持ち掛けてきたのがきっかけだ。その後に東京と京都で連続して発生した事件にも奇妙な縁で彼女は関わることとなった。それも一応の決着を見たというのに、まさかここにきて、またも私の前に登場してこようとは。
「ほんま嬉しいわあ」
刑事たちの視線が注がれる中、取り調べ対象であるはずの人物は場違いな明るさで言った。
「こうしてまためぐり会えたんやから、やっぱりうちとカイカンはんは運命なんや。ほな、再会のハグしましょ」
「勝手に立ち上がらないでください」
両手を広げて身を乗り出そうとする彼女を吉田が制した。私は小さく溜め息。そうそう、こういうことをする女だった。警部も苦笑いで返す。
「八尋さん、運命とかじゃなくて、あなたが私をお呼びになったんでしょう?」
「細かいことはええやないですか。うち、やっぱりカイカンはんの特番を作りたいんです。今やっとる仕事がもう少ししたら終わりますから、そしたらぜひインタビューさせてください! あ、その前に今夜お食事いかがです? はい、契約の握手」
そよかは可愛くまた小首を傾げると、警部に向かって手を伸ばす。しかもしっかり胸を強調しながら。あざとさもここまでくればあっぱれだ。まったく…そんな場合じゃないだろうに。仕事が終わる以前に人生が終わりかねない事態なのだ。
「あの」
思わず私は口を開く。
「私たちはそんな話をしに来たわけじゃないんです。ご自分の状況がわかってらっしゃいますか?」
手を引っ込めて漆黒の瞳がこちらを向く。
「あら、あんたもお越しやったんどすか。全然視界に入らんかったわ。ええっと、カイカンはんの部下の…ミーンさんやったっけ?」
「ムーンです!」
「ああそうそう、鎖国女のムーンさんや。相変わらず無駄に別嬪さんどすなあ」
…カッチーン!
「そんなこと言ってる時じゃないでしょ、あなたは今…」
「まあまあムーン、落ち着いて」
声を荒げそうになる私を警部がなだめる。吉田も困り顔で広い額に手を当てた。いかんいかん、これでは子供の喧嘩だ。やっぱりこの女とはとことん相性が悪いらしい。落ち着け落ち着け。私はまた胸の中で深呼吸。
「さて」
警部が笑みを消して彼女に向き直る。
「八尋さん、今は世間話をしている場合じゃないのは確かです。先ほどご自身でおっしゃったように今のあなたは容疑者、ただの参考人ではなく犯罪の加害者として疑われ、すでに逮捕もされているんですから」
そよかも真顔になる。そして、やや俯いてから答えた。
「そない言われても、うち…悪いことなんもしてまへんえ。なのになんで逮捕されなあきまへんの。警察はアホやわ」
「改めて僕からご説明しましょう」
冷徹な声で口を開く吉田。
「よろしいですか。あなたがカイカン警部を呼ばないと一言も話さないとおっしゃったから、やむなくこうしてご足労をいただいたんです。手錠をはずしたのもあなたに配慮してのことです。特別待遇なんですから、今後はその点をわきまえてご発言くださいませ。
よろしいですか? 当然ですが、警察があなたを逮捕したのもちゃんと根拠があってのことです」
「でもうち、犯人やあらへんもん」
顔を上げたそよかに怯えた様子は微塵もない。むしろ好戦的な眼差し。負けん気の強さも相変わらずだ。
「その根拠を今からご説明します。よろしいですね、カイカンさん、ムーンさん」
「お願いします」
警部と私は同時にそう返した。
*
吉田が語った事件のあらましはこうだ。
事件発生はつい先ほど、本日水曜日の午前11時頃。被害者の名前は堀川拓也(ほりかわ・たくや)、38歳男性。『感謝寿司』という店を営む寿司職人。現場はカメリア公園の南の出入り口。石段を下って歩道に出る造りになっており、被害者はそこから突き落とされたのだ。石段は五段ほどでさほど高いわけではないが、被害者は正面から頭を強打して重症、意識不明で現在病院で手当てを受けている。よって被害者の口から詳細を伺うことはまだできない。ただし、犯行の瞬間を目撃した人物が存在した。
この事件の大きな特徴は、その目撃者が民間人ではなかったことだ。犯行を見たと証言したのは、この春に警察学校を卒業し先月からこの交番に勤務している婦人警官。そう、先ほど警部と私を案内してくれた美濃巡査である。交番と公園は道路を挟んで目と鼻の先。戸口にいた彼女は、たまたま公園出入り口の被害者を視認。彼はスマートフォンで誰かと会話しながら石段の最上段に立っていたが、突然木陰から飛び出してきた人物に背中を押されて転落、叫び声を上げ、そのまま前のめりに歩道に頭をぶつける形となった。犯人はそのまま石段を下り、倒れた被害者のそばにしゃがむ。当然美濃は「何をしてるんですか!」と呼び掛けながら道路を渡って駆け寄ったが、犯人は即座に逃走。彼女は追跡よりも被害者の救助を優先、119番通報して救急車の到着を待った。
数分でサイレンが聞こえてきて救急隊が彼をストレッチャーに乗せる。そして救急車が走り去った後、野次馬に混じっていた八尋そよかを、美濃はその場で逮捕したのである。
「そやから、なんでうちが逮捕されなあかんのです? わけわからんわ」
吉田の話を聞き終えたそよかがすかさず抗議した。
「美濃巡査が被害者を突き落すあなたの姿を目撃しているんです。木陰から飛び出してきて堀川さんの背中を押したのは、黒髪のオカッパ頭で、小柄なワンピース姿の女性だったと。まさしく、あなたじゃないですか」
「うちやおまへん。見間違いや。この交番からやったら、確かに公園の出入り口はよう見えるやろうけど、それでも道路を挟んで10メートルくらいあるやないですか。
それにオカッパとか、小柄とか、ワンピースとか…別にうちの専売特許やあらへん。そんなん他にもぎょうさんおるんとちゃいます?」
「美濃巡査の矯正視力は両目とも1.5です。それにあなたのような容姿の方はそうはいないと思いますが」
「そらうちくらいはんなりした京美人は滅多におらしませんけど」
「余裕の冗談ですね。あなたの身長は145センチほどでしょうか」
「失敬やな、146センチどす」
「そんなに小柄な成人女性は珍しいということですよ。それに美濃巡査は現場から逃走した犯人の行き先もちゃんと目で追っていました。犯人の女は現場から30メートルほど先にある『朝顔ハイツ』というアパートへ飛び込んでいったそうです。
八尋さん、あなたのお住まいはどちらです?」
彼女は固まる。所轄の警部補は少し身を乗り出した。
「答えてくださいませ。お住まいはどちらです?」
「…朝顔ハイツの201号室です」
室内の緊張が強まる。
「そやけど、そやけど、ほんまにうちはちゃいます。逃げ込んだりしてません。今日はオフやから朝からずっと部屋におりました」
「ではどうして救急車が到着した時、おもてに出ておられたんですか?」
「それは…」
出かかった言葉が止まる。初めて不安を浮かべて警部を見た彼女に、低い声は「正直に話されるのがよいですよ」とアシストした。
「わかりました。うちがおもてに出たんは、堀川さんに何かあったんやないかと思うたからです。堀川さんから電話が来て、『公園の出口に着きました。今から行きます』って言わはったんや。そんな急に来られても困るってうちは言うたんですけど、そしたら『うわあ』ってたまげたような声が聞こえて、通話が切れたんです。どないしはったんやろって思うておもてに出たら、人だかりができとって、救急車も来るし、堀川さんが頭から血を流して運ばれてはるしで、ほんまにわけわかりませんでした」
「救急車に運ばれる彼に、あなたは呼び掛けたそうですね」
尋ねる吉田。
「当たり前や。しっかりして、何があったんですかって叫びました。そやけど…堀川さん、全然応答してくれへんかった。そのまま救急車が行ってもうて、呆然としとったら、あの婦人警官さんに腕を掴まれたんです。ちょっとよろしいですかって。それで逮捕や」
ハスキーボイスは徐々に勢いをなくしていた。私も膝の上に乗せた拳を思わず握る。彼女を取り巻く状況は…想像以上に悪そうだ。
「ではあなたはあくまで、自分は心配になってアパートから出てきただけで、その前に目撃された犯人は別人だと主張されるんですね?」
「そうです、別人です。うちは突き落としたりしてません。するわけない」
吉田が嘆息して言葉を止める。警部も腕を組んだまま黙っている。
「失礼します」
そのまま室内が沈黙に陥りそうになるのをドアのノックが阻んだ。少しだけ開いて顔を覗かせたのは美濃。
「吉田警部補、いいですか。鑑識からご報告があるそうです」
「了解。ちょっと失礼しますね」
やれやれと腰を上げて彼は出て行く。その時、美濃がそよかに一瞬鋭い眼差しを向けたのを私は見逃さなかった。ドアが閉まると、若きテレビディレクターは「ハア」と大きく息を吐いて肩を落とした。
「ほんま、ややこしいことになってもうた」
「八尋さん」
警部が口を開く。
「いくつか質問してもよろしいですか?」
「なんでも訊いてください。あ、スリーサイズはまだ内緒ですよ」
彼女はおどけたが、変人上司はそれには応じず、組んでいた腕を解いてから続けた。私も反射的に手帳とペンを構える。
「被害者の堀川さんとはどういうご関係ですか? 電話をする間柄ですから、赤の他人ではありませんよね」
「さっすがカイカンはん、冴えてはるなあ。そうです、堀川さんには前に取材させてもろうたことがあるんです」
「では先月放映されていたテレビ番組はあなたが?」
「見てくれはったんですか! そうです、うちが企画した『はにかみ屋さんのお寿司屋さん』っていうドキュメンタリーです。うわあ、感激や」
ディレクターは胸の前で両手を合わせると、飛び上がりそうな勢いで喜んだ。先ほどのあざとさはどこへやら、その仕草はまるで純真無垢な少女。
「たまたまテレビをつけたら番組をやっていたんです。あたたかい雰囲気で、堀川さんの人柄も伝わって、良いドキュメンタリーだと思いましたよ。お寿司がとってもおいしそうでした」
「カイカンはんに褒めてもらえるなんて思わんかった。ひょっとしてカイカンはんも取材受けてもええかなって思わはりました? カイカンはんのドキュメンタリーやったら、うち、もっともっとええのを作ります。ほな、あのおっかない刑事が戻ってくる前にハグしましょ」
また馬鹿なことを。この女の思考回路はいったいどうなってるんだ。身を乗り出されてあたふたしている上司を横目で蔑みつつ、私は強く咳払い。
「ふざけないでください。取り調べの最中です」
「もうムーンさん、またそんな恐い顔しはって。冗談やって、冗談」
「さっきからどれだけふざければ気が済むんですか。状況を考えてください」
「ほんま、いけずやなあ」
不服そうに口を尖らせて着席した彼女に警部は質問を続ける。
「では、堀川さんとはその番組制作で知り合われたわけですね。一応確認しますが、仕事以外のおつき合いはありましたか?」
「男と女のつき合いっちゅうことですか? やらしいなあ、気になります?」
「恋愛でなくても構いません。友情も含めて、プライベートなおつき合いはありましたか?」
からかいをさらりとかわされ、彼女はちょっとムッとする。
「ありまへんえ。堀川さんとは仕事だけの関係です。堀川さんだけやのうて、仕事で知りおうた人はみんなそうや。そっから恋人とか友達とかに…なられへんもん」
いつも強気な漆黒の瞳に一瞬寂しさの色が浮かんだ。
「そうですか。では、最後に彼とお会いになったのはいつですか?」
「ええと、それは…」
そよかは顎に人差し指を当てると、天井を見上げてから答えた。
「ちょうど一週間前の水曜日です。堀川さんのお店、水曜日が定休日やから、それでインタビューさせてもろうたんです」
「番組は先月放映されているのに、どうしてまたインタビューを?」
「さっきカイカンはんも言うてくれはりましたけど、あの番組、結構評判よかったんです。数字だけやのうて、視聴者のみなさんからもたくさんええ感想ももろうて。そんで来月、再放送されることになったんです。前は東京ローカルやったけど、今度は全国放送で」
「それはすごい」
「早朝の枠ですけど。そやから、再放送に合わせてインターネットにブログ記事を乗せることにしたんです。改めて堀川さんから仕事にかける思いとか、寿司職人の流儀とか、そういうお話を伺いました」
「それが先週の水曜日ですか。ちなみにその時にもめ事などは?」
「うちと堀川さんがですか? あらしまへん、そんなんあるわけないやないですか。もうカイカンはん、ほんまにうちを疑ってはるんですか?」
「…どうでしょう」
曖昧に答える警部。そよかが先ほどより強い不安を見せる。私も無意識に彼女を冤罪だと思い込んでいた自分に気が付いた。どんな人間でも過ちを犯す可能性はゼロではない。でもまさか本当に…本当にそんなことがあるだろうか。
確かにこの女は取材については強引な所がある。しかし、悔しいが、それをカバーするだけのずば抜けたコミュニケイション能力も持ち合わせている。そんな彼女が取材でもめ事なんて…。
いや待て待て、落ち着け。この仕事で禁物なのは先入観だ。コミュニケイション能力が高いからもめ事はないとは言い切れない。そして、自分の知り合いだから犯人ではないなんて理屈も成立しない。白か黒か、冷静に判断しなくては。
警部が黙ってしまったのでそよかはこちらを見る。しかし私も言葉が出てこない。無言のままゆっくり手帳とペンをしまう。気まずい沈黙を破ったのは、またしてもドアのノックだった。
「失礼しますよ」
吉田が戻ってきた。その面持ちは依然として険しい。
「何か供述は得られましたか? カイカンさん」
「いえ、特には」
「そうですか」
腰を下ろすと、間髪入れずに警部補は始めた。
「では八尋さん、そろそろ本当のことをお聞かせくださいませ」
「うちはずっとほんまのことしか言うてまへんえ」
「もうそれは通りません。物証が出ましたから」
*
物証…すなわちそよかの犯行を示す物的証拠が出たということだ。私は吉田の次の言葉に集中する。
「現場に被害者のスマートフォンが落ちていましてね。転落の拍子に落としたのでしょう。それを確認しますと、確かに本日の11時00分にあなたへ掛けた通話履歴がありました」
「ほら、言うたやないですか。うちは自分の部屋でその電話を受けたんです」
「受けたあなたの電話もスマートフォンですよね。だったら自分の部屋かどうかはわかりません。アパートの外でも、公園の木陰でも受けられるわけですから」
「そんなん、言い掛かりや」
「では八尋さん、その通話の内容を教えてくださいませ」
「さっきも言うたやないですか。堀川さんが『公園の出口に着きました。今から行きます』って言わはったんです。そんな急に来られても困るってうちが答えたら、『うわあ』ってたまげた声がして通話は切れてもうたんです」
「本当に急だったんですか? 本日お会いになる約束をされていたのでは?」
「してません」
「あなたが彼を呼び出したのでは? そして木陰で待ち伏せた」
「そんなんしてへん!」
吉田はそこでスーツのポケットから一台のスマートフォンを取り出した。それは証拠保存用のビニール袋に包まれている。
「現場に落ちていた物です。鑑識の調べでこれは堀川さんの物だとわかりました。見てください。昨夜10時10分に届いたメールです」
彼女に見えるように画面が突き出される。
「いかがです、送信者のメールアドレスはあなたのものではありませんか?」
「確かに…うちがパソコンで使うメールアドレスやけど」
「ということはあなたが送ったメールですね。どうぞ、内容を読み上げてくださいませ」
口ごもるそよか。警部補の冷たい目が注がれる中、やがて桜色の唇が動く。
「…『明日11時にうちのアパートへ来てください。大事な話があります。』」
吉田は満足そうに頷いた。
「堀川さんが急に訪ねて来たというあなたの証言は嘘ですね」
「嘘やない!」
ハスキーボイスが乱れる。
「こんなメール送ってへん。ほんまや、うちは堀川さんを呼び出したりしてへん。インタビューは先週の水曜日で終わったんや。もう会う用事があらへん」
「ですからあなたと彼には仕事以外のおつき合いがあったんですよ。それがこじれて、あなたは彼に憎悪を向けた。メールで呼び出せば彼が公園を抜けてあの石段を通ると予測して、近くの木陰に身を隠し、現れた彼をあなたは突き落とした」
「してへん!」
机を叩く彼女。次の瞬間、変人上司が重たい声を放った。
「落ち着いて、八尋さん」
「カイカンはん、うち…」
困惑を宿した漆黒の瞳には応えず、警部は隣を向く。
「吉田警部補、私にもそのメールを見せていただけますか?」
無言でビニール袋に入ったスマートフォンが渡される。警部は数秒凝視すると、私にもそれをちらりと示した。確かにそよかが先ほど読み上げた文章が記されている。
「差し出がましいようですが」
スマートフォンを机に置くと、変人上司は右手の人差し指を立てた。
「このメールだけで八尋さんと堀川さんの関係を決め付けるのは危険です。特段痴情のもつれを示唆する内容ではありません」
「もちろんです」
獲物に狙いを定めた鷹のように、被疑者から視線を逸らさずに吉田は答える。
「僕が二人の関係を疑っているのには、他にも根拠があるんです」
ポケットから別のビニール袋が取り出される。物証はもう一つあったのだ。そこには一本の鍵。キーホルダーは付いていない。警部も私も、そしてそよかも注視する。
「これも鑑識から預かりました。被害者のズボンのポケットに入っていた鍵です。これは彼の家の鍵ではありません。家の鍵は、職場のお寿司屋さんの鍵と一緒に上着のポケットに入っていましたから」
私は彼の言わんとすることを察する。警部も立てていた指を下ろした。
「どうしてこの鍵だけ別にしていたのでしょう。人様に知られては都合の悪いお部屋の鍵…ということではないでしょうかね」
そよかの瞬きが止まる。
「八尋さん、もしこの鍵があなたのお部屋の合鍵だったら、もう言い逃れはできませんよ。親しい関係ではない男に鍵を預ける女性はいませんからね。
誤解されませんように。僕はあなたに意地悪をしたいわけではありませんので。もし思い当たることがあるのなら正直に話してくださいませ。それだけが願いです。警視庁のお二人をお呼びしたのも、そうすればあなたが自供してくださると思ったからです」
彼女はがっくりと頭を下げて数秒黙ったが、すぐに勢いよく顔を上げた。オカッパの黒髪が少し崩れて頬にかかる。しかしその漆黒の瞳は少しも揺らいでいなかった。もはや不安も困惑もそこには浮かんでいない。
「はっきり言います」
気高い声が告げる。
「うちは堀川さんに合鍵なんて渡してへんし、部屋に呼ぶような関係でもおまへん。そやからさっきのメールも送ってへんし、階段から突き落としたりもしてません」
そして三人の刑事を前に、ハスキーボイスは言い切った。
「お天道様にちこうて言います、うちは…潔白どす」
2
「どう思われましたか?」
取調室を出ると、吉田が警部に尋ねた。
「彼女とはご面識があられるんですよね。印象をお聞かせくださいませ」
「そうですね」
低い声は慎重に答える。
「何とも言えません。それほど親しいというわけでもないですし、そもそも絶対に犯罪をしないと保証できる人間はいませんから」
「まあ…それはそうですが」
「こちらからも一つよろしいですか。問題の鍵、被害者のズボンのポケットに入っていたとおっしゃいましたが、正確にはどこのポケットでしょうか」
「左の尻のポケットです。それが何か?」
吉田は自らの左臀部をさすって見せる。彼が問い返したように私にも警部の質問の意図がわからなかった。しかし当の本人は「左…」と呟いてそのまま黙ってしまう。何かを考えているらしいので、その間に私は傍らの美濃に尋ねてみた。
「あの、あなたが犯行の瞬間を目撃されたんですよね?」
「はい、ばっちり見ました」
「その時の状況をもう一度教えていただけますか?」
「わかりました。あの、こっちに来てもらえますか?」
交番の戸口に立つ彼女。私も従った。
「ここです。ここに立ってここから目撃したんです」
斜め右の方角。確かに道路を挟んで公園の出入り口の石段が見える。距離はざっと10メートル。黄色いテープで現場保存されており、捜査員や鑑識員が所狭しと動き回っている。石段の周囲には何本も太い樹木があり、犯人が木陰に身を隠すこともできただろう。先ほど車で警部とここへ来た時は左方向からだったので気付かなかった。
「被害者を突き落としたのは、本当に八尋さんでしたか?」
「あたしが嘘を言ってるってことですか?」
「いえ、疑っているわけではないのですが、もう一度確認を」
巡査はメガネを少し直す。
「あたしが見たのは、オカッパ頭で小柄なワンピ姿の女性でした。木陰から飛び出してきて、スマートフォンで話してた被害者を後ろから突き落としたんです。両手でこうやって」
両方の腕を突きだすジェスチャーをする彼女。その表情は真剣そのものだ。
「そうですか。ただそうなると、ここから見て犯人は被害者の陰になってしまうんじゃないですか?」
美濃は現場を一瞥する。
「確かに…突き落とす瞬間の位置関係はそうですね。でも突き落とした後もあたしはちゃんと見てました。犯人は石段を下まで降りて、倒れた被害者のそばにしゃがんでました。あたしが道路を渡って駆け寄ったら、走って逃げたんです」
「そしてそのまま朝顔ハイツに入っていったんですね」
「はい、それも間違いないです。あたし、119番通報しながらちゃんと目で追ってました」
「犯人の顔はしっかり見ましたか?」
「それは…」
一瞬言い淀んだが彼女は続けた。
「八尋さんの顔だったと思います」
もう一度事件現場に目をやってから、私たちは交番の中へ戻った。
「お帰りムーン。じゃあ一緒に行こうか」
考え事は終わったのか、明るく警部が言った。その手には問題の鍵。
「行くって…どちらにですか?」
「今日はこのまま捜査協力させてもらうことにしたんだよ。それでこの鍵が本当に八尋さんの部屋の物か、確かめに行こうと思うんだ。君も一緒に来てくれ」
「わかりました」
「すんませーん!」
私の返事と重なって、奥の廊下からそよかの声。
「すんませーんムーンさん、ちょっとええですか?」
まるで居酒屋で店員でも呼ぶような感じ。変人上司をちらりと見ると「どうぞ」と苦笑い。吉田と美濃は眉をひそめている。私は会釈してまた取調室へ。
「失礼します」
入室するとそこには場違いな笑顔があった。私は後ろ手にドアを閉める。
「どうしました?」
「どうもこうもないわあ」
彼女は大きく伸びをする。
「まさかこんなことになってまうなんてなあ。ほんま人生はスリリングや」
「スリリングって…のん気なこと言ってる場合じゃないでしょう」
「ほなエキサイティング?」
「そういうことではなくて」
「恐い顔せんといてえな。わかってますって。でもこんな経験滅多にできへん。帰ったらさっそく企画書をプロデューサーに出します。ああ、ここにノートパソコンがあったらなあ」
私はまた込み上げそうになる怒りをなんとか抑える。
「それで、私を呼んだのは何の御用ですか? こちらは忙しいんですが」
「他人行儀やなあ。去年一緒に京都へ二人旅した中やないですか」
「あれは事件の捜査です。それより用件を」
「ほんまいけずやなあ。まあええわ。あの、今からうちの部屋まで行くんですよね?」
「どうしてそれを?」
「テレビマンの地獄耳を舐めたらあかんぜよ」
彼女はオカッパを少しめくって右耳を見せる。この女、ドア越しに立ち聞きしてやがったな。
「家宅捜査には令嬢が必要なんとちゃいます?」
「鍵の照合に行くだけです。中に入る時はちゃんと申請しますよ」
「そんなんええです、許可します。その方が捜査がはよう進んでうちの無実が明らかになるんやったらさっさと部屋の中も調べてください。はいこれ、うちの部屋の鍵です」
清水寺のキーホルダーが付いた鍵を手渡される。
「その代わりムーンさんにお願いなんやけど、ついでにうちの服を片付けてくれはります?」
「はい?」
「そやから、部屋んなかに散らばっとる服を片付けといてほしいんや。だってそうやろ? カイカンはんも部屋に入りはるのに、脱ぎっぱなしの下着とか見られたらかなんもん」
私は溜め息。そんなこと気にしてる場合か。確かに去年の事件で彼女の部屋にお邪魔した時も衣類が脱ぎちらかされていた。
「まったく、普段から綺麗にしておかないからですよ」
「テレビマンは忙しいんや。なあ、女同士やないの。頼んます、このとおり」
両手を合わせて可愛く小首を傾げられても女の私には何の効力もない。
「…前向きに善処します」
「助かるわあ。やっぱりムーンさん、頼りになる。今度インタビューさせてえな」
「あの!」
私は語調を強める。
「本当にわかってらっしゃるんですか?もし堀川さんが亡くなったらあなたは傷害致死…場合によっては殺人罪に問われるかもしれないんですよ」
「…大丈夫やって」
そよかははしゃぐのをやめるとすっと冷たく目を細める。そしてわずかに胸を張ると、口元だけ綻ばせて続けた。
「だってカイカンはんが捜査してくれはるんやから。それにムーンさんもいてくれはるし、大船に乗った気持ちどす」
「警部も私も公的な立場です。あなたに肩入れできるわけじゃありません」
「肩入れなんていりまへんえ。ただ事実を明らかにしてくれはる…それだけでええんです。だってうちは潔白やから」
警部を信じているのか、自分を信じているのか、それともお天道様を信じているのか。いずれにしても私には持ち合わせのない心でそよかは微笑んだ。
「では失礼します」
私は背を向けてドアノブに手を掛ける。
「なあ、ムーンさん。うち…」
ふいに掛けられる声。か細く臆病な響きだった。ゆっくり振り返ると、そこにあったのは感情のない顔。
「どうか…しましたか?」
「うち、ほんまは」
一度止まる言葉。そしてゆっくり口角を挙げると、彼女はニヤリとして続ける。
「ほんまはずっと喉渇いとったんです。飲み物もらえます? アキナーマートのカフェオレがええなあ」
…カッチーン!
3
朝顔ハイツは事件現場から確かに視認できる距離で、交番からも徒歩二分とかからなかった。防犯カメラやオートロックなどない古い木造2階建てアパート。入り口から入るとすぐ右手に細い折り返しの階段がある。
「八尋さんのお部屋は201号室だったね」
「はい」
警部と共に階段へ向かおうとしたところで、上から妙な声が飛んできた。
「開けてくれよお、俺が悪かったよお」
男の嘆きだ。それと同時にドアが叩かれる音。思わず顔を見合わせる警部と私。
「機嫌直してくれよお、マイハニー!」
どうやら恋人に対して何らかの許しを乞うているらしい。
「昼下がりの痴話げんかかな。フフフ、微笑ましいね」
不気味に笑う警部。いや、たいして微笑ましくもないと思うが。
「それより警部、この階段を昇り切ってすぐ正面が八尋さんの部屋です」
「了解。あ、そうか。君は前にも来たことがあるんだよね」
「はい。去年の京都の事件の時の捜査で。あの時は車で直接乗り付けたので、近くに交番や公園があることは意識してませんでした」
「それからは来てないの?」
「え? 来てませんよ。彼女とはプライベートなつき合いはありませんから」
「そう。じゃあ…行こうか」
変人上司が先に階段を昇る。その後ろをついて昇ると、謎の男の嘆き越えが大きくなってきた。
「頼むよう、もう部屋に入れてくれよお、愛してるんだ、マイハニー!」
「まるでロミオだね」
呟く警部。いやいや、シェイクスピアの悲劇がこんな所で展開してたまるか。
2階に到着。廊下に声を響かせていたのは、緑色に染めたモヒカン頭にダブダブのトレーナーを着た若い男だった。一般的には柄のよろしくない風貌だが、その筋の人間というよりもその筋の人間を装いたい小心者、ちょっとだけいきがっているチンピラ気取りというのが私の第一印象。どうやら202号室から恋人に閉め出されているらしい。浮気でもしたのか、借金でもしたのか。そしてそれ以上に、今時モヒカンとはいかがなものか。時折ノックを挟みながら、男は涙の嘆願を続けている。
「ほんの十五分遅刻しただけじゃんか。ねえハニー、もう許してくれよお」
そこでこちらの存在に気付いたのか、ふいに振り向く彼。
「あ、すんません、大騒ぎして。ハニーに閉め出し食らってんすよ。11時に来る約束だったのに遅れちまって。それでむくれてんすよ」
「フフフ、そうでしたか。お構いなく、私たちはお隣の部屋に用があるだけですので」
警部は楽しそうに答える。
「そうっすか。うわあ、もうこんな時間。いつもは三十分くらいで入れてくれるんすけどねえ。今回はケーキでも買って来なきゃダメかな」
彼が腕時計を見たのにつられて私も自分の腕時計を一瞥。12時15分を過ぎたところだった。
「それにしてもおじさん、パンクな格好っすね」
「いえいえ、そちらこそ」
どっちもどっちだ。するとモヒカン野郎の目が私を捉える。
「うわ、こっちのお姉さんはめっちゃ美人っすね。芸能人っすか? なんかのロケっすか?」
彼はニヤけて私の背後にカメラマンを探すが、もちろんそんなものは存在しない。面倒くさいので警察手帳を取り出そうとした時、202号室の中から女の怒声が飛んできた。
「誰と話してんの! 浮気してんのか!」
「違うよお。俺はハニーしか愛してないよお。近所の人と話してただけだよお」
「人様に迷惑かけんな!」
男がドアに向かってペコペコすると、ガチャリと鍵が開く音。彼は警部と私に軽く会釈すると、またニヤニヤしながら「ごめんよお」と室内へ消えていった。そのドアが閉まってから、私は胸の中でやれやれと呟く。
「では」
隣で低い声が言った。
「気を取り直して確認してみますか、はたしてこいつがこの部屋の鍵かどうか」
警部のコートのポケットから問題の鍵が取り出される。鑑識の報告では誰の指紋も残っていなかったらしいが、これは被害者のズボンのポケットに入っていた鍵。そよかと個人的な交際がなければ持っているはずのない鍵だ。もちろん登録番号を調べればどこの部屋の鍵かはわかるが、実際に鍵穴に突っ込んでみるのが最も手っ取り早い。
「いざ!」
警部の手で鍵が挿し込まれる。そしてそのままゆっくり回され、ガチャリと音がしてロックがはずれた。
「鍵…この部屋のですね」
呟く私。実は予測していたことではあった。そよかから預かった鍵と問題の鍵は、私の肉眼で見る限り同じ物だったからだ。ただこれでますます彼女への疑惑は深まることとなる。
「警部、どう思われますか? 八尋さんと堀川さんにはやはり個人的なおつき合いがあったのでしょうか」
「そう…なのかな。だとすると、室内には堀川さんの私物があるかもしれない。私物じゃなくても、何か二人が部屋で過ごしていた痕跡が」
数秒考えてから低い声は続ける。
「入って確認してみようか」
それが妥当だ。幸いそよか本人にも家宅捜索の許可はもらっている。抜いた鍵をコートのポケットに戻すと、警部はドアノブに手を伸ばした。
「あ、ちょっと待ってください。私が先に入ります。一応一人暮らしの女性の部屋ですから、警部は私が合図するまで待っていてください」
「そうかい? じゃあお願い」
武士の情けで彼女からの頼みを聞いてやることにする。代わりにドアノブを回して入室すると、私は玄関で靴を脱ぎ、見覚えのあるワンルームに上がった。相変わらず彩りの乏しい部屋、大画面テレビのそばには仕事ようと思われるCDやらDVDやらが積み上げられ、デスクの上にもパソコンが埋もれるほどの書類の山。壁際のダンボール箱には缶詰とインスタントラーメンが詰め込まれている。
「なんだ、大丈夫じゃないの」
思わずぼやく。私はまた彼女にからかわれたのだろうか。掃除が行き届いた部屋というわけではないが、少なくとも服や下着が散乱しているなんてことはなかった。窓からの自然光で、明かりを点けなくても室内は十分見渡せる。
「警部、どうぞ」
声を掛けると変人上司がすぐ玄関から入ってくる。
「ここが八尋さんのお部屋か。業界の人の住まいにしては地味な感じだね」
「ええ。前に私が来た時もこんな感じでした」
「ナルホド」
独特のイントネーションで頷くと、警部はキョロキョロ室内を見回す。
「特に…堀川さんが出入りしていた痕跡はなさそうだけど」
独り言のように呟くと、警部はそのままキッチンの方へ進む。
「あ、足元気を付けてください」
ソファ脇の床に置かれた炊飯器を蹴飛ばしそうだったので思わず声を掛ける。警部は「おっと危ない」と足を止めた。
「どうして炊飯器が床に置いてあるんだろう。それにこのにおいは…」
低い声がそう言った瞬間、炊飯器がピーピーと音を上げた。炊き上がりのアラームだ。
「やっぱりね。ごはんが炊ける時のにおいだと思ったよ。どれどれ。いやあ、随分年代ものの炊飯器だね」
その場にしゃがむと炊飯器の蓋を開けてしまう。モワッとした湯気が長い前髪に押し寄せるが、変人上司はそのまま炊飯器の中を見つめている。あまりにその時間が長いので私もそばに寄った。
「警部、炊飯器がどうかされましたか?」
「ねえ、今の時刻は?」
「え、12時20分になったところですけど。それが何か?」
腕時計を見て報告するが返事はない。私も炊飯器の中を覗いてみるが、そこにも特段不審な様子はない。おいしそうなごはんが炊けているだけだ。昼食を摂っていないので思わずお腹が鳴りそうになる。
「どうしてごはんが炊かれてるんだろう」
「どうしてと言われましても、昼食用じゃないですか?」
変人上司は納得いかない様子。いったい何が引っ掛かっているのだろう。お昼にごはんを食べることに何か不自然さがあるだろうか。見たところ3合ほど炊かれているので女性の一人暮らしとしては量が多い気もするが、別に一回で食べ切るわけでもないだろう。いや待てよ、ひょっとしたら…。
「もしかして警部はこうお考えですか? たくさんのごはんが炊かれているのは、八尋さんが堀川さんと一緒に食べる予定だったからだと。堀川さんは寿司職人ですから、二人で手巻き寿司パーティでもしようとしていたとしたら、この量のごはんも頷けますね。そうだとすると、彼を部屋に呼んでいないという彼女の証言はますます疑わしくなります」
返される無言。警部はそのまま蓋を閉めると、静かに立ち上がった。そして注意深く室内を見回しながら、さらに奥へと進む。
「あ、あれは!」
そして、キッチンスペースに入るやいなや低い声が叫ぶ。警部は震える手でテーブルに置かれた物を取った。それは平べったい手のひらサイズの箱…何だ? 何か重要証拠を見つけたのか?
「警部、どうされました?」
「なんてこった、これは…」
驚愕しているらしい。私はごくりと唾を呑み下す。やがて重たい声がキッチンに響いた。
「これは…レトルトのキーヤンカレーだ」
…え?
「キーヤンカレーのレトルトだよ。ご家庭でお店のおいしさが味わえるっていう。いやあ、噂には聞いてたけどついに出たんだ。八尋さん、さっそく買ってたんだね」
キーヤンカレーとは南新宿にある警部の行きつけのカレー屋。確かにおいしいのでレトルトが発売されてもおかしくない…おかしくないが、しかし、今はそんなの関係ないっつーの!
「手巻き寿司じゃなくて、カレーを食べるためにごはんを焚いてたんだね」
「警部、いい加減にしてください。見たところそのレトルトカレーは一人前ですけど、だからといって八尋さんが堀川さんを呼び出していない根拠としては弱いです」
「ごめんごめん。ちょうどお腹がすいてきたからね」
カレーをテーブルに戻すと、警部はまたぐるりと室内を見回した。小さなベランダも覗いてみるが特段変わった所はない。トイレのドアまで開けてみるが…。
「便座も下がったままか。もし上がってたら男が使った可能性も出て来るんだけどね、それもなさそうだ」
ここも空振り。
「残すはバスルームくらいか」
脱衣所と浴室はキッチンのさらに奥らしい。
「ムーン、確認してきてくれるかい?」
わかりました、と答えようとした時に玄関のインターホンが鳴った。
*
ドアを開けると、そこには新米警察官の姿があった。その表情はとても硬い。
「美濃さん、どうされました?」
「あの、実はその…思い出したことがあって報告に」
「そうですか。ではどうぞ」
廊下で話させるわけにもいかないので中に招く。その時、彼女の肩越しに何かが動いたのを私の目は捉える。1階へ下る階段の折り返しの踊り場で影が揺れたのだ。しかし…もう誰もいない。気のせいか?
「警部、美濃巡査がいらっしゃいました。思い出したことがあるそうです」
「そう、じゃあ上がってもらって」
二人で警部のいるキッチンスペースまで行く。変人上司はまたレトルトカレーを手に取っていた。
「それは何ですか?」
尋ねる美濃。
「レトルトカレーですよ。しかも私が大好きなキーヤンカレーの」
「そのカレーが何か事件と関係あるんですか?」
「いえいえ。ただ単純においしそうだなあと思いまして。美濃さんはどんなレトルトカレーがお好みですか?」
「あたしは…あたしは嫌いです、レトルトカレーなんて。体に悪そうだし」
「そうですかね。結構おいしいもんですよ」
「手作りの方がおいしいに決まってます。それより報告をしていいですか」
世間話は打ち切られた。警部はやや気まずそうに再びカレーをテーブルに置く。
「どうぞ始めてください。何のご報告でしょう」
「先ほどムーンさんに言われて、じっくり思い出してみたんです…自分が目撃したことを。あたしは確かに犯人が被害者を石段から突き落とすのを見ました。それは間違いなくオカッパ頭で、小柄なワンピ姿の女性でした。その女性は倒れた被害者のそばにしゃがんだ後、走り去ってこのアパートへ逃げ込みました」
目を細める警部。
「すぐにあたしが呼んだ救急車が来て、辺りには野次馬も集まってきました。そしてその中に…オカッパ頭で小柄なワンピ姿の女性がいたんです。なので…その場で逮捕しました」
「どうして逮捕したんです?」
ややきつめの語調で尋ねる低い声。
「まずは任意の事情聴取でもよかったんじゃないですか?」
「だって現行犯だから」
変人上司はそっと右手の人差し指を立て、かぶりを降った。
「いえ、現行犯には当たりません。逃げた犯人をあなたが追跡してそのまま捕まえたのならそれは現行犯、緊急逮捕で問題ない。でも犯人はこのアパートへ逃げ込んで一度あなたの視界から消えてます。追跡関係も一度そこで切れてるんですよ」
「でも…」
新米警察官は反論しかけて唇を噛む。メガネの奥の瞳が悔しそうに逸れた。ただこれについては警部の言っている理屈が正しい。
「誤解しないでくださいね。人命救助を優先したあなたの判断は正しい。犯人を追わなかったことを責めてるわけじゃありません。ただ逮捕は早計だったと」
「でも」
彼女は意を決したように一度止めた反論を発した。
「このアパートへ逃げ込んだ犯人と、野次馬に混じってた八尋さんが別人なんてこと、ありますか? そこまでそっくりな人がたまたま近くにいたなんて、あたしには信じられません」
警部は立てていた指を下ろして小さく唸った。彼女の主張も間違ってはいない。私でも同じ状況なら逮捕に踏み切ったかもしれない。血気盛んな新米の頃なら尚更だ。その場に沈黙が流れたので私は言葉を挟む。
「美濃さん、それで思い出したことというのは何ですか?」
「はい、そう、そのことですけど。あたしが逮捕した時の八尋さんは薄水色のワンピでした。でも、よくよく思い返してみたら、被害者を突き落とした犯人のワンピは薄桃色だったような気がするんです。もちろん光の加減でそう見えたのかもしれないけど」
「服の色が違う…つまり別人の可能性があるってことですね?」
警部の前髪に隠れていない左目が興味を示す。今度は彼女がかぶりを振った。
「いえ、そうじゃなくて…着替えたんじゃないかって。犯行の時に着てた服をそのまま身につけてるのは誰でも抵抗があります。それに犯人はあたしに目撃されたことを認識してました。アパートへ逃げ帰った後、服を着替えてもおかしくないです」
「それならそもそも、またおもてに出てこない方が安全なんじゃないですか?」
「犯人は現場に戻るもの、と警察学校で教わりました」
「確かにそうですが…フフフ」
そこで警部はこちらを見た。
「では博識のムーン先生、どうして犯人は現場に戻ることがあるのか、ご説明いただけるかな?」
「なんですか急に。やめてください、先生なんて」
「いいからいいから、さあどうぞ」
まったく…私は仕方なく始める。
「犯人が犯行現場に戻るパターンとしては、大きく二つあります。一つは自己顕示欲の強い犯人が、自分の犯行に対する人々の反応を見たいがために現場に戻るパターン。放火魔などの愉快犯に多いですね。もう一つは不安の強い犯人が、何か痕跡を残したのではないか、警察の捜査の進捗はどうかと気になって現場に戻るパターン。万引き・盗撮などの軽犯罪に多いですね」
「フムフム」
変人上司は腕を組んで大袈裟に頷く。
「他にも、犯人は現場から逃げるものだという警察の心理を逆手にとってあえて現場へ戻るパターン、第一発見者を装って容疑を逃れようとするパターンなどもあるかと思います」
「さっすがムーン、お見事。では今回の事件の場合はどうだい? 犯行の瞬間を警察官に目撃された犯人が、あえてまた現場に戻る理由はあるかな?」
「それは…おおよそ考えにくいと思います」
私は素直に答えた。警部は腕組みを解いて美濃を見る。これで彼女の仮説は否定されたかに思われたが…。
「もう一つ、可能性を忘れてます」
メガネの奥の瞳は全くひるまない。
「自分の痕跡を消すために現場に戻るパターンですよ。八尋さんが現場に戻ったのは、この部屋の合鍵を被害者から取り返すためです。どうでした? あの鍵はこの部屋の合鍵でしたか? カイカンさんとムーンさんが今この部屋の中にいるってことは、きっとそうですよね」
私は黙って頷く。
「ほらやっぱり。だったら間違いない。堀川さんとの恋人関係を警察に知られないように、合鍵を取り戻そうとして、八尋さんは服を着替えてまたおもてに出てきたんですよ」
正直驚く。その可能性は考えていなかった。確かに…筋は通っている。
「ナルホド」
警部も深く頷くと、右手の人差し指を長い前髪にクルクル巻き付け始めた。考え事をする時の癖だ。美濃は訝しげにそれを見たが、やがてこちらに向き直った。
「あたし、報告だけじゃなくて、証拠を見つけるためにここへ来たんです」
「どんな証拠ですか? 警部と私も室内を見て回りましたけど、この部屋に堀川さんが出入りしてた痕跡はありませんでしたよ」
「そんなんじゃなくて、決まってるじゃないですか、薄桃色のワンピですよ。あたしの考えが正しかったら、八尋さんは犯行の後でこの部屋に戻って、今度は薄水色のワンピに着替えたはずですから」
そう言うと彼女は両手に手袋を装着してツカツカと歩き出す。変人上司はまだ黙考中。私は慌てて彼女の後を追った。
「待ってください、美濃さん。どこを探すんですか?」
「木を隠すなら森の中です。服を隠すなら…」
美濃はベッド脇の衣装ケースや洋服箪笥、クローゼットや収納を確認。作業する彼女を隣で見守るが、目当ての物は出てこない。
「…なさそうですね」
私が伝えると、美濃はすっくと立ち上がって部屋を見回す。そして奥のドアへと向かい、ためらいなくそれを開いた。仕方なく私も続く。そこは脱衣所も兼ねた洗面所であり、洗濯機が置いてあった。床には靴下が片方だけ落ちている。そよかが脱ぎ散らかした物だろう。
「服を隠すなら、洗濯物の中」
新米警察官はそう言うと洗濯機に歩み寄って蓋を開けてしまう。私も隣に立って中を確認。まだ洗っていない衣類やタオルがドラムの8割ほどまで入っていた。
「一緒に確認してくださいね、ムーンさん」
慎重な手付きがその中をまさぐっていく。やがてその右手は一番底から一着のワンピースを探り当てた。ゆっくりと外に引き出される。
…薄桃色だった。