僕の人生に何度も気付きとエネルギーを与えてくれたドラえもん映画を研究するシリーズの1回目です。
■研究作品
今回は1980年3月15日公開の記念すべき第1作『のび太の恐竜』を研究します。ピューイ、ピューイ!
■ストーリー
恐竜を丸ごと見つけてやると無茶な宣言をしてしまったのび太は、自力でそれらしき玉子の化石を発掘し、ドラえもんの協力も得ながら孵化させることに成功。生まれたフタバスズキリュウをピー助と名付けて育て始めるが、現代はピー助にとって暮らしにくい世界。一億年前の世界へ還してあげようとするが、その途中でピー助を狙う謎の男が介入、タイムマシンを壊されて元の時代へ戻れなくなってしまう。帰還の方法は一億年前の世界でタイムマシンを日本まで運ぶこと。かくしてドラえもんとのび太たちは、恐竜が闊歩する白亜紀の冒険に踏み出していく!
■福場的研究
1.主旋律と副戦慄
思えば子供の頃は特別この作品が好きということはありませんでした。もちろん1980年の公開当時は玉子のピー助さながらにまだこの世に生まれていませんでしたので、僕がこの映画を観賞したのは小学生になってから。
あまり好きだと思わなかった理由の一つは、絵柄や声優さんの演技が往年の頃のものとは異なること、もう一つは異世界冒険のパートが他のドラえもん映画よりも少ないことです。一億年前のアメリカ大陸を横断するのが本作の冒険ですが、実際にタイムマシンで白亜紀へ行くのは映画の中盤になってから。冒険がメインの映画としてはイントロダクションが長すぎるのです。
でもそれは、その後のシリーズをたくさん見て、「ドラえもん映画の主旋律は異世界冒険だ」と認識してしまっているからこそ生じた感想でした。忘れてはならないのは、本作は『ドラえもん』という作品にとって初の長編映画だということ。「お馴染みの五人が異世界へ遊びに行って冒険を繰り広げる」というフォーマット自体がそもそもなかった状態で制作されているわけです。
その後のシリーズのフォーマットに縛られず、想像力を働かせてみましょう。短編テレビアニメだった『ドラえもん』が初めて映画になった、さあどんな内容なんだろうとドキドキしながら映画館に足を運ぶ。そんなまっさらな子供の気持ちで観賞すれば、こんなに満足度の高い内容はありません。
異世界パートが少ないのは日常パートが多いから。そして日常パートで描かれているのはのび太とピー助の交流。玉子から育てた恐竜が可愛くて仕方ないのび太、最初はみんなに見せびらかすために育てていたのがいつしかピー助の幸せを考えるようになるのび太、寂しくてもピー助を思って別れを選ぶのび太の姿こそが本作の主旋律。だからこそタイトルも『のび太の白亜紀大冒険』ではなく『のび太の恐竜』なのです。
ペットを飼ったことのない僕でさえこれだけ胸が熱くなるのですから、きっと可愛いペットの思い出がある人にとって、のび太とピー助のドラマは涙を禁じ得ないものでしょう。テレビアニメの雰囲気をそのまま継承した日常が主旋律の本作は、異世界での冒険や闘いが主旋律となるその後のシリーズとは一線を画しており、だからこそ唯一無二の魅力を放っているのです。
ただし異世界パートもやや短めながらインパクトは抜群。映画の中盤からはテレビアニメでは描けないスケールと迫力で獰猛な恐竜たちとのスリル溢れる冒険が展開します。逆にもし本作が最初から最後まで冒険だったら、テレビアニメの『ドラえもん』しか知らない子供たちは落差に戸惑ってしまったでしょう。
その意味でも本作の構成は絶妙。作品を通して流れている主旋律はあくまでのび太とピー助のドラマであり、その途中で異世界冒険という副旋律が絡んでまた消えていき、再び優しい主旋律のみで演奏を終えるのです。
そして本作で異世界冒険の露払いができていたからこそ、次作以降、ドラえもん映画は様々な不思議世界へ冒険に出掛ける作品として、シリーズのフォーマットが形成されていくことになります。
2.冒険の渦中で帰宅
本作では、そもそもタイムマシンが故障して現代日本へ帰れなくなってしまったことが冒険の始まりなので、僕の好きな「冒険の渦中で日常へ戻る」という場面はありません。
その代わり、全てが終わって無事にいつもの部屋にみんなで戻って来た場面で、壮大な安堵感がもたらされています。野比家からの帰り道、ジャイアンとスネ夫が学校の宿題について交わすやりとりは絶品ですね。
3.冒険の切り替わり
タイムマシンを壊されて仕方なく始まった旅ですが、『巻き込まれた冒険』から『自分で選んだ冒険』に切り替わる瞬間はしっかり描かれています。それは敵の男から「ピー助を差し出せば元の世界へ送り返してあげよう」と提案された後、五人で話し合いをする場面。もう冒険はつらいから男に従おうという意見も出ますが、最終的には男の提案を跳ね除け、自分たちで日本へ帰る冒険を五人は選択するのです。
原作漫画をお読みの方は、この話し合いの場面がもっと劇的に描かれているのをご存じでしょう。プテラノドンに追われてタケコプターを失った自分をのび太が見捨てなかったことに心動かされたジャイアンが、「俺は歩く、のび太と一緒にな!」と話し合いでのび太の肩を持つのです。
映画版でどうしてこの名場面がカットされたのか。あくまで想像ですが、これも子供たちへの配慮かもしれません。今でこそ「映画版のジャイアンはかっこいい」というのは有名な話ですが、初めての映画でそれをやってしまうと、テレビアニメ版のいじめっ子のジャイアンとのあまりの違いに子供たちは混乱しかねません。本作ではすでにピー助との交流でのび太の人間性を深く掘り下げているため、他のキャラクターまで掘り下げることはあえて避け、ジャイアンとスネ夫にはテレビアニメ版のままのキャラクターでいてもらったのではないでしょうか。
ちょっと物足りない感じもしますが、メインスポットを当てるのはドラえもんとのび太だけにするというのは初の長編映画に馴染んでもらうための配慮。実際に映画がシリーズとなった自作以降は、ジャイアンたちの優しさや勇敢さがどんどん描かれていきます。
4.その他
今回再観賞して気になったのが、ドラえもんが桃太郎印のきび団子を食べさせた場面で「ティラノザウルスはもう家来だよ」という場面。きっと今のご時世だったら「家来」なんて言葉は不適切、「友達」という言葉に変更しよう、なんてことになりそうです。ただドラえもんはその次のセリフで「一緒に遊んでも平気だよ」とも言ってます。家来と呼んだからといってティラノザウルスを下に見ているわけではない、主従関係ではなく一緒に遊ぶ仲間の関係。
現代のSNSでは「友達」と登録していても友情や信頼が希薄な悲しい関係がたくさんあります。言葉の選び方も大切ですが、一番大切なのはそれをどんな気持ちで言っているかということ。この「家来」という言葉がクライマックスの伏線になっていることを思えば、とても秀逸な表現だなと気付きました。
また、白亜紀で宿泊する場面には、メンバーそれぞれの個室での様子が描かれていますが、ジャイアンは元気で勇ましい、しずかはうっとりシャワー、そしてスネ夫は弱気で母親を思う。これはこの後のシリーズでも何度も見かけるお馴染みの小休止カットですね。
それともう一つ、どれくらい昔の時代なのかを説明する時にドラえもん映画で時々出てくる言い回し「おじいちゃんの、そのまたおじいちゃんの…」も本作で初登場。
その後のシリーズにつながるエッセンスをいくつも含んだ本作、やはり開幕策にふさわしかったと言えるでしょう。
それでは今回はこのくらいで。次回は映画第2作、1981年公開の『のび太の宇宙開拓史』を研究します。
■好きなセリフ
「ちょっとね」
野比のび太
大冒険から戻った後、ママから「みんなで何してたの?」と訊かれた時の返事
令和7年3月15日 福場将太