届いた年賀状を確認していると、「昨年で年賀状じまいをさせていただきました」「本年をもって年始の挨拶を失礼致します」といった文言がちらほら。仕事を引退して関わりが疎遠になった、加齢や病気で書くのが大変になった、郵便ハガキの高騰で負担が大きくなった、などなど理由は色々あるだろう。そもそも本来自主的に行なう挨拶をしないことに対して「やめさせていただく」「失礼致します」と言ってしまうのがいかにも日本人らしい。それだけ年賀状というものは儀礼的になってしまっていたということか。
にもかかわらず、年賀状じまいに幾分の寂寥を覚えるのはどういうことだろう。今回はそんな年始の研究を。
1.小学校時代
幼い頃、12月に入ると両親は年賀状の準備をシクシクと始めていた。親戚友人だけでなく仕事関係のつながりにも書いており、しかも当時はメッセージはもちろん、住所や宛名も手書きであり、まるで内職のように数週間をかけ、送る年賀状の束を完成させていた。
そして年明けに祖父の家に遊びに行くと、そこには高さ10センチを超える届いた年賀状の束が。子供心に、大人とは年賀状をやりとりするもの、年齢と共にその枚数は増えていくものなんだと理解した。
自身でも年賀状のやりとりをし始めたのは、小学3・4年生の頃だったか。友達をモデルにしたイラストをメッセージに添えて送っていた。また当時はクラスメイトの住所録が配布される時代だったので、この子はこの辺りに住んでいるのかと、宛名を書きながら興味深く思ったものだ。
2.中学・高校時代
思春期になると、女子と年賀状のやりとりをするのが少々照れくさくなった。特に意識している子から届いたりすると、その短い文面から相手の心情を必死に読み取ろうとしたものだ。
またこの頃になると、みんな年賀状でそれぞれの個性を発揮するようになる。印象に残っているものとしては、悪戯好きの奴は両面住所と宛名にしていたり、あぶり出しと書いて実は何もなかったり、『金田一少年の事件簿』の影響で文面を暗号にしていたりした。カメラ好きの図書委員長は自身の撮影した写真をプリントしていたし、同人漫画を描いていた子はオリジナルキャラクターを押し出していた。深夜ラジオに
はまっていた僕なんかは、本名を書かずにペンネームで送ったりした。
おそらく人生で一番年賀状に創意工夫が凝らされていた時期で、まるでちょっとした文化祭、一人ひとりの好きなことに触れられるのが嬉しかった。
3.大学時代
大学生になると学友同士で年賀状をやりとりすることは稀だったが、古式ゆかしい柔道部にはその慣例が残っており、僕は一人ずつイラストとメッセージを書くのが毎年の楽しみだった。稽古では厳しい師範が年賀状では優しいメッセージを書いてくれたり、いつもおとなしいマネージャーが年賀状ではハイテンションだったり、そういった普段と違う人柄に触れられるのも好きだった。
また年賀ハガキにはお年玉くじがついているが、それで当時としては最先端だった薄型テレビをもらった。そのテレビは二十五年経った今も、画面は映らなくなったが、我が家で音声を届けてくれている。
4.社会人時代
就職後も、小・中・高・大学時代の親しい友人や、仲良くしてくれている同僚とは年賀状のやりとりを続けた。目が見えていた頃は自分で書いていたが、不自由になってからはいつも助けてくれる友人にお願いし、パソコンで作ったデータを渡してそれを印刷してもらうのが年末の恒例となった。
ストレートに挨拶を書いたり、作詞を書いたり、時には新年の西暦を素因数分解してみたり、毎回年賀状で何をするかというのはちょっとした大喜利だ。ちなみに図書委員長は未だに自分で撮影した写真の年賀状。形式美もここに極まれりである。
そうやって現在まで続けてきた年賀状のやりとり。確かに年々枚数は減っていた。転居されたり輝石に入られたり、そして年賀状じまいをされたりで、それは仕方のないことだ。
ただ年賀状だけでしか交流していなかった人たちも少なからずおり、そのつながりが絶たれてしまうのはやはり寂しい。今度はいつ会えるかわからない、もしかしたらこのまま一生会わないかもしれない人たち。それでも年に一度近況を伝え合うささやかなつながり。
人間はつながりで互いの命を支え合って生きている。年賀状もその大切な一本だったのではないだろうか。
5.研究結果
時間も手間もお金もかかるけど、近況を伝え合い、好きなことを共有し、普段は見せない人柄を覗かせる。それが年賀状。
本当になくしてはいけないのは、そんなささやかなつながりの糸だ。
令和7年1月20日 福場将太