この度、社会福祉法人ありのまま舎主催の『第24回 ありのまま自立大賞』を受賞し、その授賞式に仙台市へ行ってきた。ここにその思い出と、自立についての研究を少々。
1.ありのまま自立大賞
正直なところ、自分は目立ちたがり屋でありながら受賞というものがあまり得意ではない。面接の際も、選考委員長の瑤子女王殿下や選考委員の皆様とお話をしながら、本当に自分でよいのかをずっと自問していた。ただ今回は、最初に推薦してくださった方が恩人であったこともあり、謹んで拝受することにした。
2024年7月13日(土)、授賞式は仙台市福祉プラザのふれあいホールで開催された。控室でお弁当と銘菓・萩野月をいただきいよいよステージへ移動。最初に瑤子様からこの賞に向けてのお言葉を賜り、その後ありのまま舎の白江理事長から表彰状を授かった。思えば表彰状なんていつ以来だろう。僕の他にもう一組、パンジーメディアさんという大阪の団体も受賞しておられた。
2.ありのままの自立とは
今回、改めて『自立』という言葉の意味について考えてみた。
仕事柄どうしてもすぐに浮かぶのは2006年に施行された『障害者自立支援法』、障害を持つ者が支援を受けながら自立した生活を目指すことを目的とした法律だ。自分で立つと書いて自立だが、助けを借りながら立ってもそれは自立ということだろう。
僕もまさにそうで、自分一人で立っているなんてことは全くない。仙台まで飛ぶにしたって友人に空港まで送ってもらっているし、授賞式の壇上だって介助者に誘導してもらって上がっている。日々の診療だって助けてくれるスタッフと患者さんがいてくれて成立している。生活でも仕事でもたくさんの支えを受けているのだ。
ただ僕はもしも友人が困った時には相談に乗りたいと思う詞、患者さんの心を支える仕事をしている。割合で言えば支えてもらっている方が多いかもしれないが、それでも多少は誰かを支えることもしながら生きている。
それが僕の自立。自分一人で立っているのではなく、一方的に支えてもらって立っているのでもなく、持ちつ持たれつの支え合いにちゃんと参加してみんなと一緒に自分も立っていられているのだ。
そして『ありのまま』という言葉についても考える。
これについてはちょっと自信がある。精神科医という肩書、視覚障害者という肩書、つい大きくなりがちなこの二つにあまり僕の心は囚われていない。音楽や小説の中にいる時は医師免許のことも目が見えなくなったことも忘れているし、ドラえもん映画を見ている時は年齢も忘れて心躍っている。他にもたくさんたくさん自分には色々な面があって、それは優劣なくどの面も大切で、精神科医や視覚障害者が自分の中で他よりも大きいなんてことはまるでない。
むしろ視覚障害者であることが精神科の仕事に気付きをくれたり、精神科医としての学びが視覚障害の回復に役立ったりする。どちらも行き詰った時は音楽や小説が癒しをくれるし、それも嫌になった時にはドラえもんが助けてくれる。そんな絶妙な、もとい不思議なバランスで僕の心は成り立っており、それが僕のありのままなのだ。
だから今回の『ありのまま自立』という言葉は、僕にとってはとても嬉しい表現だった。これからも持ちつ持たれつ、たくさん支えてもらいながら誰かを支えられたらと思うし、ありのままの心で医療も音楽も執筆も頑張っていきたいと思う。
3.ありのままに去りぬ
お世話になったありのまま舎の皆様とパンジーメディアの皆様にお別れし、せっかく久しぶりの仙台なので一泊してから帰ることに。夕食はもちろん牛タン。伝える前から僕の視覚障害を察して色々と気遣ってくださった店員さんたちのやさしさが嬉しく、そして牛タンもとってもおいしかった。幸せな時間を本当にありがとうございました。
北海道に戻るとこの度の受賞を何よりもまず『視覚障害をもつ医療従事者の会 ゆいまーる』のメーリングリストに報告。視力を失って医療の仕事をあきらめかけた時、継続のヒントをくれたのがゆいまーる。ゆいまーるとの出会いなくして今の自分はないし、この度の受賞もなかったのは間違いない。改めて感謝の気持ちでいっぱいだ。
ちなみに会場には瑤子様をお守りするSPさんがたくさんいらっしゃったのだが、ゆいまーるのメーリングリストでそのお話をしたところ、音声パソコンでは「SPさん」が「STさん」とも聞こえるようで、どうして会場に言語聴覚士さんがたくさんいるんだというゆいまーるならではの勘違いも発生。そんなユーモアを共有できる仲間たちがいることがまた嬉しい。
4.研究結果
これからも自分は多面体、目指すは中途半端の王様だ。
その日まで萩の月と牛タンの味は忘れませんぜ。
令和6年7月20日 福場将太