青春のヤスクニー・ロード 西へ

 2023年7月末、急遽決行した新宿への旅、その一日目は音楽部の仲間たちとの幸福な夜だった。本来なら二日目はただ北海道へ帰るだけの予定だったのだが、ある人のおかげでとても有意義な日となった。今回はそんな記録を。
 靖国通りをただ西へ、そこに僕の母校の大学病院がある。

1.忘れないホテル

 実は今回宿泊したのは大学受験の時にも利用したホテル。卒業後も新宿へ来る時は大抵ここに泊まっていた。思い出深いという点でも、目が見えていた頃に構造を把握しているという点でもここがベストと考え、十数年ぶりに予約の電話をしたら変わらず営業してくれていて有難かった。
 白杖を頼りにエントランスをくぐると懐かしい香り。フロントの位置も記憶どおりで無事たどり着けた。ただホテルマンさんが外国の方だったらしく、目が悪いので住所などを代筆してほしいというこちらのお願いがなかなか伝わらず。するとたまたまそばにいたお客さんが「僕が書きましょう」とペンを取ってくださった。こんな時、本当に人のあたたかさに救われる。僕らのやりとりを見てホテルマンさんもようやく事情を理解してくださったらしく、その後は部屋まで優しく誘導してくださった。

 そんなホテルで目覚めた二日目の朝。僕は若干二日酔いながらも身支度を整える。そして再びホテルマンさんの優しい誘導でフロントへ行きチェックアウト。そしてロビーで待っているとあの人が時間ぴったりに現れた。

2.忘れないキャンパス

 そう、それはNHK札幌放送局のディレクターさん。この時期僕はテレビの取材を受けていて、職場以外の姿も色々撮影してもらっていたのだ。僕がせっかく新宿へ行くので母校を見に行こうかなという話しをしたら、それも撮影しようということになったのだ。僕としては一人で動くのは心許なかったので一緒に歩いてくれる人ができて大助かり。そんなわけでさっそくホテルを出て母校へと向かった。

 間もなく到着。無許可で敷地内への立ち入りはできないのであくまで正門前に佇む程度であったが、それでも十分に憧憬の念は込み上げた。グラウンドからは懐かしい運動部の練習の掛け声も聴こえる。
 そのまま白杖とディレクターさんを頼りに外周をぐるりと歩く。僕は柔道部員でもあったのでこの外周はいつも稽古前のランニングで走っていた道、日が暮れてしまうと夜盲症状で見えなくなるため僕はいつも夕陽と競うメロスのような気持ちで走っていた。

3.忘れない寮

 大学の裏手には学生寮が変わらずあった。僕も3年生までは暮らした寮だ。当時厳しい縦社会がそこにはあって、寮飲み会は苦痛と憂鬱でしかなかったが、それを一緒に乗り切った同級生たちとは不思議な絆ができた。集団生活が苦手な自分、人生で唯一の寮生活を経験できてよかったと今では思っている。

 また寮の隣には小さな商店街が並ぶ細い通りがあり、寮の風呂が壊れた時は銭湯に行ったり、町内会の神輿を担がせてもらったりした。
 また以前のコラムでも書いたが、学生時代ずっと我侭な僕のヘアースタイルの注文を聞いてくださっていた床屋もあり、東京を去る前日にその床屋のおじさんに貸してもらったコウモリ傘は今も我が家の玄関にある。朝の早い時間帯だったので店は開いていなかったが、おじさんは元気だろうか。まさかもう一度この商店街を歩く日が訪れようとは。

4.忘れないホスピタル

 最後はタクシーで靖国通りを西へ向かう。歌舞伎町の前を通り過ぎ、ガード下を抜けるとそこは都庁など天に聳える高層ビルが立ち並ぶ西新宿。そして僕の母校の大学病院はそんな場所にある。僕には昔の姿のイメージしかないが、何年か前に改築したらしいので今はどんな姿になっていることだろう。

 その敷地の前に立ってふと考えた。自分の網膜色素変性症がわかったのが医学部5年の病院実習の最中。もしもこの病気がなければ、目が悪くなっていなければ、僕はそのままここで働いていたのだろうか。とても母校愛が強い大学だ、目が悪くなっても素直に相談すればあるいはここに置いてもらえる道もあったかもしれない。音楽部と柔道部の仲間たちのそばで、助けてもらいながら生きる人生もあったかもしれない。
 でも自分はそれを選ばなかった。全く未知の北海道で、医療も人間関係も全てゼロから始める道を選んだ。それは勇敢でも英断でもなく、ただの天邪鬼なド変人の負けず嫌い。いつか目が見えなくなって人生に行き詰った時、その情けない姿をみんなに見せたくなかっただけ。嘘でもいいから「あいつはどこかで頑張ってるらしいぞ」と認識されていたかっただけ。みんなと同じステージで闘う自信がなくて逃げ出しただけだ。

 結局北海道で予測どおり目は見えなくなった。ただ予測に反して人生に行き詰まることはなかった。なんとか自分なりの働き方を見つけ、ようやくやりがいのようなものも感じられてきたここ数年。今回新宿に足が向いたのは、ようやく堂々とみんなの前に出られる気持ちになれたからだったのかもしれない。十七年かかったが、卒業生としてちゃんとやっていますと母校に報告できる気持ちになれたからだったのかもしれない。
 まあ相変わらずド変人ではあるけれど。猛暑の東京で長袖の黒ずくめで病院前に佇む謎の中年、それを手持ちカメラで撮影するディレクター。怪し過ぎるではないか。

5.忘れない出会い

 ディレクターさんの助けで職場へのお土産も調達で気、僕は無事北海道の日常へ戻った。後日、実際にオンエアーされたテレビを確認すると、やはり怪し過ぎたのか東京ロケはオールカット。前々回のコラムでも書いたように素敵な構成にしていただいて僕としては満足しているのだが、使えない素材のために一緒に歩いてもらってなんだか申し訳ない。そんなことは番組を作る上で日常茶飯事ですとディレクターさんは笑ってくれたが、この人がいてくれたおかげでより充実した旅になったのは間違いない。

 改めて思う。今回に限らず、僕は出会いと偶然に恵まれていると。学生時代、大学は別だったが同じ音楽部と柔道部所属ということで仲良くしてもらっていた先輩・通称和尚さんと偶然再会したことがきっかけとなって、視覚障害を負った人の心のケアという自分が追究できる道を見つけられた。今回のディレクターさんも、実は今年1月に和尚さんに誘われて出演した講演会がきっかけで知り合った人の知り合いの知り合いとしてつながった。しかもたまたまテレビ主剤と東京行きのタイミングが重ならなければ、足を伸ばして母校の大学病院の前に立つことなんて有り得なかっただろう。ここでも素敵な偶然が作用してくれている。
 なんだか人間関係を広げるのが苦手な僕に代わって、網膜色素変性症がどんどん出会いをつないでくれている感じだ。本当に、憎らしいことをしてくれる相棒である。

6.研究結果

 これからも出会いを大切にしていきたい。手前味噌だが、十七年前の楽曲『HOPE SONG』の歌詞を引用。
 「悲しみは一生つきまとうが、そのおかげで出会えた人たちが 喜びをくれるのならそれもあり」

令和5年8月19日  福場将太