卒業式の季節だ。そしてこの3月は自分が小学校を卒業してちょうど30年に当たる。
今回は青春の一歩手前、早春の時代を過ごした今はもうない呉市立五番町小学校の思い出を書いてみたい。
1.学校名とシンボル
まずは五番町小学校という名称について。もちろん学ラン姿の番長が五人いるわけではないし、五番街のマリーも関係ない。子供の頃に聞いた話によると、昔の区割りでは呉駅の辺りが一番町で、小学校があった辺りが五番町だったというのがその由来である。
そして五番町小学校といえばシンボルはツタカズラ。漢字で書くと「蔦葛」であり、つまりツタの木が校舎の壁面を覆い尽くしていたのである。実は直接それを見たことはない。僕が入学する前年に新校舎に改築されツタの木たちも撤去されたのだ。ただ運動場の片隅には一本のツタと共に記念碑が設けられていて、そこに立つと子供ながらに寂寥を感じたものだ。
また後者も全てが改築されたわけではなく一部は古いまま残されており、講堂や職員室がある建物がそうだった。少し薄暗くてひんやりした空気、石造りの階段、焦げ茶色でギシギシ軋む木造の廊下を憶えている。そしてその廊下には古い写真が展示されていて、そこには確かにびっしりと深緑色のツタに覆われたかつての校舎の姿があった。
甲子園球場や天空の城ラピュタをイメージしてもらえばわかりやすいだろうか。ピカピカの校舎を使わせてもらえたのは嬉しかったが、窓を開ければツタカズラに触れられる、そんな緑の神様に守られた旧校舎も使ってみたかったと思う。
2.校章と校歌
校章は星の中に砂時計のような記号が描かれたマーク。毎年春には生徒全員でそのマークを描くように運動場に並び、それをヘリコプターから撮影していた。その航空写真をプリントした下敷きが生徒全員に配布されるわけだが、僕はこれが毎年楽しみだった。
生徒たちによって運動場に描かれた巨大な校章、自分の頭はどれかななんて探すのもまた楽しく、校舎や通学路、公園を地図の様に空から見下ろす写真は子供心に圧巻だった。
そしてその下敷きの裏にも記載されていたのが校歌である。記憶している1番の歌詞はこんな感じだ。
瀬戸海の波よするごと つどいよる学びの園は
五番町 その名も高く 誉アリ歴史にさかゆ
子供の頃は「つどいよる」の意味がわからず、「つどい夜」と解釈し、くどいとか強いのように「つどい」という形容詞があって、それはどんな夜なんだろうと思っていた。なので僕の中では未だにこの曲は夜の瀬戸内海のイメージである。
歌のメロディは雄大でどこかポップ。解析してみると一番盛り上がるサビのコードがサブドミナントから始まっているのも校歌としては珍しい。でもそのおかげで後述するトランペット鼓隊でのマーチ曲アレンジが映えるのだ。
長年歌詞を誤解しておいてなんだが、この校歌、大好きです!
3.給食とコッペパン症候群
五番町小学校のお昼ごはんはセンターから運ばれるのではなく、ちゃんと校内で作られる出来立ての給食だった。給食当番は給食室へ行き、ボウルや鍋をもらってくる、そして教室で配膳のセッティングをして、他の生徒たちはトレイを持ってそこに並ぶ。好きな子にだけこっそりオマケしちゃう給食当番もいたものだ。
一番の人気メニューはミートソーススパゲティ。麺の量に比してソースが少ない気もしたが、それをいかに配分して食べるかが楽しく、子供好みの甘い味付けが本当においしかった。学校のバザーの日は保護者も給食のメニューを味わえるので、お家でもこんなミートソースを作ってとお母さんにせがんだ子も多かっただろう。
主食は主にパンだったが、呉市民はメロンパンのことをコッペパンと呼ぶ風土病『コッペパン症候群』に全員罹患しているため、献立表に「パン」と書いてある日にはコッペパンが出て、「コッペパン」と書いてある日にはメロンパンが出るという不思議なことになっていた。
そういえばマーガリンを顔や腕に塗ってはしゃぐ「エステごっこ」が一部男子に流行していたが、あれは五番町だけだろうか。マーガリンを眉間に塗って自慢してきた奴の顔が今でも忘れられない。
白米が主食の日も時々あったが、低学年の頃は余ったごはんで担任の先生が塩結びを握ってくれた。それがとってもおいしかったのを憶えている。
飲み物は牛乳、あのピラミッドの形をした通称『三角牛乳』だが、ストロー挿し込み口のシールの剥がし方を見て、「アウト!」「セーフ!」と判定する同級生がいた。みんなセーフが取りたくて彼に見せていたが、そもそもどんな根拠で判定していたのか謎である。
そして年に数回だけ出るオレンジジュースやアイスクリーム、コンビニやスーパーで買えばいつでも味わえるのに、学校の中では紛れもないご馳走であった。
4.休み時間とロックンドッジ
授業と授業の間には10分と25分の休み時間があり、25分の方は「大休憩」と呼ばれて多くの男子は運動場に駆け出していた。やっていたのはドッジボールとサッカー野球。サッカー野球は世間ではキックベースと呼ばれるもので、たくさん塁に出て人数が足りなくなると透明ランナーだらけだった。男子に交じって参加する女子もいて、クラスに一人は大活躍のスポーツガールがいたものだ。
チャイムが鳴るギリギリまで遊んだらまた全力疾走で教室に戻る。水分補給はもちろん水道水。給食室前の蛇口だけ何故か夏場でも冷たい水が出るので隠れた人気スポットだった。すぐにペットボトルのお茶やジュースを飲んでしまう今の自分と比べると、水だけで疲れ知らずだったあの頃はなんと燃費が良いことか。
そういえばドッジボールと野球を合わせたような『ロックンドッジ』という遊びもあった。小学校以降見たことも聞いたこともないが、あれは五番町オリジナルだったのか、正式に存在するスポーツなのか、情報求!
5.動物たちと植物たち
校庭には百葉箱に並んで鳥小屋もあった。そこにはウサギも飼われていて、確か名前はハッピーとラビーだったか、つがいでいたため赤ちゃんも生まれ、ウサギの赤ちゃんというものを僕は初めて見た。
また中庭の池にはたくさんの睡蓮が浮かび、鯉やアメンボが棲んでいたものだ。当然草むらにはバッタやカマキリ、パンジーやチューリップの花壇には蝶々も舞っていた。職員室前の廊下には水槽もあって、当時流行のウーパールーパーもいた気がする。
6.学芸会と父親自慢
学芸会では各クラスが演劇を披露した。講堂に全生徒と保護者が集まり1年生から順に発表するのだが、低学年の頃は高学年の劇がやけに大人に見えたものだ。
自分がどんな劇をしたか、正直ほとんど憶えていない。一つだけ記憶に残っているのは3年生の時にやった森の動物たちが悪いコウモリと闘う話で、僕はコウモリ役の一人だった。各自コウモリのお面に使う絵を用意してくるように先生が言い、漫画が得意なうちの父親が描いた絵を持っていくと、それを見た先生が他の生徒に「福場くんのお父さんの絵を写しなさい」と言った時にはちょっと誇らしかった。思えば父親にしてもらって一番嬉しかったことがこのコウモリの絵かもしれない。
ちなみに劇の最後は全員がステージに出ての大団円なのだが、先生は「君たちは悪役なんだから出てたらおかしい」と言い、コウモリ役の僕らは舞台袖で待機となった。子供ながらに「劇なんだからそこはいいだろう!」と思ったのも良い思い出である。
7.トランペット鼓隊と受け継がれる音
お待たせしました。五番町小学校を語る上で絶対にはずせない、五番町最大の特徴といえばこのトランペット鼓隊だ。
6年生になると生徒は必ずこのトランペット鼓隊に所属し、何らかの楽器演奏、あるいはバトントワリングを担当する。楽器にはトランペット、トロンボーンといった金管楽器にグロッケン、大太鼓・小太鼓・シンバルといった打楽器がある。そしてこれらは先生から教わるのではなく、6年生から5年生へ、基本的には楽譜も使わずに生徒たちの手から手へと技術が受け継がれていくのだ。最終的にはトランペット交代式において正式に楽器も譲り渡される。
あの式典の情景は今も鮮明に思い出せる。運動場の端と端に6年生と5年生が向かい合って並び、まず6年生が演奏、その後運動場の真ん中にお互い進み出て、教えた先輩から教わった後輩へと直接楽器を授与、また元の位置に戻って今度は5年生が演奏する。言葉を交わさずに音楽で伝えて音楽で応える、子供ながらにこの伝統には感動した。僕は中太鼓の担当で教えてくれたのは女子の先輩だったが、今頃どうしているだろうか。
そして楽器を引き継いで6年生に進級するとトランペット鼓隊はことあるごとに活躍する。週1回のトランペット朝礼ではその演奏に合わせて全校生徒が行進する。運動会では開会の挨拶に合わせてファンファーレを吹き、プログラムの半ばでは演奏しながら運動場に陣形を描く晴れ舞台も用意されている。
みんなで一つのことを成し遂げる喜び、それを初めて味わったのがこのトランペット鼓隊だった。また音楽の楽しさにも触れ、ピアノで合唱していた校歌がトランペット鼓隊ではこんなに力強いマーチ曲になることに音楽の魔法を感じた。
正直、楽器は何年も受け継がれてきた代物なのでかなりオンボロ。太鼓なんて破れかけていて叩いても安っぽい音しかしない。それでも長年の伝統が沁み込んだその楽器だからこそ奏でられる音だ。
今でも運動場に広がるあの力強い響きを思い出す。やっぱり五番町最大の思い出はトランペット鼓隊である。
8.中学受験と先生の考え
僕らの時代は中学受験をする生徒が多かった。別に受験しなくても地元の公立中学に進むことは当然できるのだが、クラスの4分の1くらいは受験をして別の中学に行くことを目指していた。まあそれは生徒自身の意志というよりも、子供の将来を思った親の意志といった方が正確だろう。
受験組の生徒は放課後塾に通い、そこで学校の授業よりも進んだ単元や、学校では教わらない算数の公式を習ったりする。そしてついそれを学校の授業でも披露してしまう生徒もいた。
それに対して、褒める先生もいれば叱る先生もいた。前者は受験組とそうじゃない生徒にそれぞれの対応をする先生、後者は生徒は生徒として一律の対応をする先生だ。
子供の頃は優しい先生、面白い先生が良い先生だと思っていた。逆に厳しい先生や恐い先生は悪い先生だと思っていた。もちろん優しくて面白い先生が作ってくれる楽しい思い出も一生の宝、でも一方でちゃんと厳しく叱ってくれた先生にも今は心から感謝している。現代ではもうそぐわないのはわかっているが、本当に悪いことをした時にビンタしてもらってよかったと僕は心から思っている。
だから受験組を特別扱いしなかった先生の考えも今ならわかる気がする。塾に通って同級生が知らない解き方を披露する。自尊心や自信になるかもしれないが、一歩間違えれば調子に乗って同級生を見下すことにもなりかねない。五番町は公立の小学校、能力や家庭環境の異なる子供たちが通っていた。それでもみんな同じツタカズラの生徒なのだから。
実際に僕の妹のクラスは厳しいことで有名な先生が担任だったが、それを一丸となって乗り越えたことで、受験組もそうじゃない生徒も関係なく、男も女も関係なく、みんなが仲間になってその友情は今も続いている。
これが時を越えた壮大な先生の計算だったとすれば脱帽するしかない。実は僕もその先生に受け持ってもらったことがある。お互い成人してから妹と一緒にテレビドラマ『女王の教室』を見ていた頃、登場する鬼教師に重ねてよくこの先生のことを話題にしていたものである。嫌われる度胸がなければ真の教育は成し得ないのかもしれない。
先生、ありがとうございました!
9.幼馴染と素敵な生き方
僕自身も中学受験組だ。当時はどうして自分が受験するのかわからなかった。放課後の遊びの誘いを断わって、夜遅くまで塾で勉強する意味がわからなかった。そこまでして友達や好きな子と違う遠く離れた学校を目指さなくてはいけない理由がわからなかった。
だから合格しても嬉しさ半分、残念半分、卒業式ではとても淋しかった。当時は生徒が歌ったら次は先生が歌ってというミュージカルのような式で、本番までに飽きるほど練習していたのに、それでもやっぱり当日は涙が出た。そして春から地元ではない中学へと旅立った。同級生でその中学へ行くのは三人、男子は僕だけだった。
幸い僕は塾の仲間にも恵まれたので、塾で過ごす時間はストレスよりも楽しさの方が多かったし、その中の一人とは未だに親友として関係が続いている。アカシアという生涯の母校に行くこともできた。だから中学受験はしてよかったと思っている。でもそれは結果論、今だから思えること。そして失ったものも多くあることも自覚している。
もし受験しなかったら、大半の同級生たちと同じ中学に進み、ずっと同じ町内に暮らし、幼馴染と一緒に年齢を重ねながら生きていったかもしれない。実際に随分大人になってから参加した同窓会で、そうやって生きている同級生たちを目にした。
「親父がよろしく言ってたよ」「じゃあ今度またお前の店に飲みに行くぞ」「うちの喫茶店にも来てよ」「俺の店のフライケーキも持っていくぞ」「昔からお前はそればっかりだな」
…なんて会話が自然に交わされていた。
中学から地元を離れてしまった自分には入り込めない空気がそこにはある。小学校からずっと一緒で、中学生になって、高校生になって、家業を継いで、結婚して、お互いの性格も、家族のことも、失敗談も、恋愛話もたくさんたくさん知っていて、そしてお互いの子供たちがまた幼馴染になって、いずれは共に老いていく。
ないものねだりなのはわかっているが、そんな生き方も間違いなく素敵だと思う。
10.研究結果
五番町小学校がなくなってからもうどれくらい経つだろう。合併して新しくできた学校でもトランペット鼓隊は受け継がれたらしいが、楽器も新調されて、もちろん五番町の校歌はレパートリーにないだろう。
自分がいずれまた地元で暮らす人生があるのかはわからない。それでもみんなにはまた会いたい。目が見えなくなったと伝えたら驚かれるかもしれないが、みんなだってこの30年できっと色々あったはず。
大丈夫、中太鼓のリズムは今でもばっちり憶えてるから。
ありがとう、五番町小学校! ツタカズラよ永遠なれ!
令和5年3月7日 福場将太