流浪の研究第十楽章 さよならがいっぱい

 生きる場所を求めて放浪していた時代を振り返るシリーズの10回目。今回は東京との別れについて書いてみたい。

前回までのあらすじ:
 音楽部でのラストライブも終わり北海道で医療の道を歩むことを決めた僕は、思い掛けない幸運で最後に念願のラジオドラマ製作を行なえたのであった。

1.警告

 小学校を卒業して呉市から広島市の中学へ行った時もそう、高校を卒業して広島市から東京の大学へ行った時もそう、人生には旅立ちに伴う別れが常にある。今回は東京を離れて北海道、親戚も知り合いも一人もいない世界へ旅立つわけだが、不思議と不安よりも清々しさの方が勝っていた。仕事はもちろん、人間関係もまたゼロからのスタート、どんな出会いが待っているんだろうと期待が膨らんでいた。願わくば愛読漫画『天は赤い河のほとり』の主人公ユーリのように、全く未知の世界でもあたたかい仲間を作れたらいいな…なんてことを荷作りをしながら考えていた。

 ただこの北海道行き、誰もがもろ手を挙げて賛成したわけではない。眼科の主治医からは網膜色素変性症を進行させる原因として紫外線があること、そして北海道は空からの紫外線だけでなく積もった雪に反射しての刺激もあるから余計に危ないことを警告された。つまり、わざわざ視力が低下するリスクが高い場所へ行くのはお薦めできないと(*)。
 また大学時代の友人は雪国の過酷さを心配した。瀬戸内育ちの僕は自分の身長を超える積雪なんてもちろん経験がないからだ。それに東京にいれば困った時には母校の大学がある、音楽部と柔道部、二つの部活の仲間たちがいる。わざわざ誰もいない場所で頑張ることもないだろうにと。
 とはいえ僕の天邪鬼と頑固さは今に始まったことではない。それでも行くつもりだと答えると、主治医も友人も快く応援してくれた。

*2022年現在では、紫外線が網膜色素変性症を進行させるという学説は必ずしもそうではないと見直されているそうです。

2.界隈

 東京を離れる心残りとしては、やはりお店の豊かさがあった。
 まずは何と言ってもお食事処。レストランでも食堂でもバーでも居酒屋でもあまりに充実。真夜中だろうが明け方だろうが、焼き肉でも中華でもカレーでもそばでもお寿司でも、東京には24時間食べられる店があるのだ。
 カレーファンとしては学生時代にとことん通った西新宿の『もうやんカレー』が特に思い出深い。どうしても食べたくなって四ツ谷のアパートから西新宿まで自転車を飛ばした夜が何度あったことか。あの日本一のカレーも食べ納めだった。

 食事以外だと趣味に関わるお店も東京は充実。魔術に凝った頃に通った『紀伊國屋書店』の専門書コーナー。オカルト趣味と思われそうな魔法に関する本でもちゃんと学術書として並んでいるのはさすがの一言。また着心地が気に行って僕は画家用のスモッグを普段着として愛用していたが、それも画材や美術用品を取りそろえた『世界堂』のおかげで入手できた。マニアックな漫画やCD、同人誌を楽しむなら『アニメイト』や『まんだらけ』。これらのお店も通い納めである。

 そして音楽好きとしてはやはり楽器屋。『島村楽器』のギターも弾き納め、練習スタジオとして愛用した『御苑スタジオ』も歌い納めだった。大学卒業後の音楽活動を支えてくれた錦糸町アルカキット前ステージでのドリームライブも出演納めとなった。
 散歩コースとしては上智大学の教会の十字架も見納め、新宿御苑の広大な自然も見納めである。

3.人情

 こうして一つずつ終わっていく日々の中、柔道部の仲間や東京アカシア組の仲間と最後の宴も囲んだ。ある者はジンギスカン鍋を、ある者は熊よけの鈴をプレゼントしてくれた。

 そしてついに部屋の荷物も北の大地へ送り、大家さんにお礼を言って部屋も解約した旅立ちの前日。僕は学生時代から馴染みの床屋で散髪をした。
 「前髪は顎まで垂らしてうなじは刈り上げてほしい」だの、「他は普通でもみ上げだけ鎖骨に届くくらい長くしてほしい」だの、音楽部現役の頃は無理な注文ばかりしていたお店だ。店主のおじさんは苦笑いしながらそんな僕のリクエストに応えてくれ、幼かったおじさんの娘は仕上がった僕の頭を指差しながら「変!」と笑っていた。
 大学の学生寮が面した細い通りにある床屋。他にも肉屋・金物屋・銭湯など、昔ながらのお店が並ぶ情緒あるこの下町商店街が僕は大好きだった。そういえば一度お祭りの神輿も担がせてもらったっけ。上京して最初の三年間は学生寮で暮らしたが、寮を出てからも僕はずっとこの床屋に通い続けていた。そして髪を切ってもらいながら、おじさんから寮の先輩たちが巻き起こした珍事件の話を聞くのが楽しかった。

 北海道へ行くことを告げると、おじさんは「そうかい。大泉洋さんがやってる北海道だけのすごく面白いテレビ番組があってね、友達からビデオを送ってもらってるんだよ」なんて話していた。
 そして最後の散髪を終えて店を出ると雨が降っていた。するとおじさんは一本のコウモリ傘を握らせてくれる。もう返しに来れないと伝えても、「いいから持っていきな」とおじさんは笑った。結局お互い名前を名乗ることはなかったけど、僕は最後までおじさんの優しさに甘えることとなった。

4.別離

 そして部屋も引き払って寝床がない僕がどうしたかというと…その夜は朝まで音楽部の仲間と宴に興じた。お店は新宿3丁目の『銅鑼』、学生時代には毎週のようにここで夜を明かしていたが、これも人生最後の銅鑼オール。定番だったざくろサワーも飲み納め。先日のラジオドラマに参加してくれたメンバーもいて、小さな打ち上げともなった。

 迎えた朝は二日酔いで爽やかとはならなかったが、みんなにお礼を言って僕は羽田へ向かう。ラジオドラマの音声が入った録音機材とコウモリ傘をしっかり握って。
 電車に揺られながら、今頃になって寂しさが込み上げる。正直、自分が思っていたよりずっとずっとたくさんの人と東京で関わっていた。そしてこんな自分勝手なひねくれ者に優しくしてくれた人たちに心から有難いと思った。東京にいればこれからもみんなの近くにいられる。目が見えなくなっても優しいみんななら助けてもくれるだろう。
 でもみんなの仲間でいるためには、やっぱりみんなと離れてちゃんと自分の道を歩かなくちゃいけない。
 SEPTEMBER、そして9月はさよならの国。きっちり散髪したおかげか、後ろ髪は引かれなかった。

 こうして国家試験不合格から始まった約一年半の放浪はたくさんのさよならと共に終わりを迎えた。そして新たな出会いが待ち受ける北の大地へ僕は離陸したのである。

5.研究結果

 ありがとうみんな、さらば東京!

令和4年9月7日  福場将太