流浪の研究第九楽章 最後のエンターテイメント

 生きる場所を求めて放浪していた時代を振り返るシリーズの9回目。今回は旅立つ直前の忘れられない思い出について書いてみたい。

前回までのあらすじ:
 中学時代からのファンである嘉門達夫氏の新番組『ナリキン投稿天国』にネタを投稿してほのかな自信を取り戻した僕は、いよいよ就職活動を始めるのであった。

1.未練

 思えば小学校時代にはクラスメイトを登場させた漫画を描いたり、夏休みの自由研究でオリジナルの絵本を作ったりした。中学・高校時代には部活でパソコンゲームを作ったり、バンドでオリジナル曲を作ったり、仲間と8ミリ映画を作ったり、文化祭でミステリー劇を上演したり、体育祭でやぐらを設計したり、卒業記念で人生初の推理小説を書いたりした。大学時代も部活のホームページで小説を書いたり、オリジナル曲をレコーディングしてCDを作ったり、仲間の戴帽式や結婚式用の楽曲を作ったりした。
 どう考えても自分は根っからの創作好きで、特に音楽と小説はどんな時でもやめずにいたライフワークと呼んでいい。だからそれを仕事にできたらという思いはずっと胸にくすぶっていた。

 しかしエンターテイメントで生計を立てるのは大変なこと。大学になんか進学しない、自分は好きなことをやるんだとごねていた頃に母親から「あなたがどんなにやりたいとしても、周囲がそれを求めるかどうかは別問題」と諭されたことがあるが、子供の将来の安泰を願う親の気持ちからすれば至極真っ当な意見である。結局両親を説得するほどの実力も、反対を振り切って家を飛び出すほどの度胸も自分にはなく、僕は大学進学を選んだ。
 しかしどれだけ医学を学ぼうが、どれだけ視力が低下しようが、創作が好きだという情熱は尽きるどころかどんどん増幅するばかり。卒業から一年間放浪してなんとか国家試験だけは突破したものの、いやはやこの行き場のない情熱をどうしたものか。

2.実力

 つくづく割り切りの悪い性分だと思う。ようやく腰が上がって就職活動をしつつも、僕は同時に創作活動も継続していた。ドリームライブには相変わらず出演し、いくつかの文芸賞にも小説や作詞を投稿してみた。音楽コンテストやインディーズレーベルに楽曲も応募してみた。インターネットラジオ局がDJを募集していたのでそこにもエントリーしてみた。

 しかし結果は鳴かず飛ばず。ドリームライブでは顔見知りも増え少しずつステージ慣れできたもののそれで収入が得られるわけではない。他の出演者と話しをしても別の仕事をしながら音楽活動をしている人がほとんどで、芸能事務所に所属している人でさえバイト暮らしだった。応募した小説も一作だけ本にしてみませんかというお声はあったものの、あくまで自費出版の話であり、もちろんそんなお金は出せなかった。とある作詞コンテストでは単行本に掲載してくれたり、インディーズレーベルがCDを作ってくれたり、インターネットラジオの番組を持たせてくれたりはあったものの、いずれも趣味の範疇でとてもそれで生活できるような収入にはつながらなかった。
 進路探しに一年費やし、その後も数ヶ月ジタバタやってみたがエンターテイメントで食べていく道は拓かれない。それが結果であり、紛れもない実力だった。そしてドリームライブのチラシを道行く人に配ったり、バイトでポケットティッシュを配ったりという経験もしたが、自分はさっぱりうまくできなかった。
 もうタイムリミット、いつまでもとどまることは許されない。悔しくても情けなくても、今持っている医学の知識と医師免許にすがって前に進むしか自分には自立の術がないことを痛感した。そんなわけで、一生医療の道を歩く覚悟も歩ける保証もなかったが、僕は就職活動に本腰を入れた。

3.終演

 そんな初夏の日、ちょうど大学の音楽部で『OBライブ』という卒業生が出演するイベントが開催された。国家試験に受かったことで一応の面子も立ったので僕は久しぶりにバンドを組んで出演することにした。メンバーは完全に僕の我儘でオファーし、先輩から後輩まで、最高と呼べる顔触れが集まってくれた。バンド名は『末端音楽団』、プロじゃない末端の存在だけど音楽を好きな気持ちは同じ、という想いを込めて命名した。

 当日は音楽部だけでなく柔道部の仲間も見に来てくれ、学生時代を支えてくれたみんなの前でパフォーマンス。仮面をかぶったサプライズメンバーを飛び入りさせたり、フェードアウトしたかと思えばまたフェードインしたり、ただ演奏するだけでなく学生時代に学んだエンターテイメントの手法をたくさん盛り込んだ。そしてラストナンバーは学生時代の代表作『Medical Wars』で締めくくった。
 これが人生最後のライブ、相変わらずヘナチョコだったが悔いなくやり切った。みんなには本当に感謝しかない。

 そして8月に入った頃、北海道の病院への就職が決まった。東京を離れることにしたのはやっぱり天邪鬼、いつまでもこの優しい人たちに頼ってはいけないと思った。また、いつか目が見えなくなってみんなと同じように働けなくなった時、その情けない姿を知られたくないという気持ちもあった。さらにはどうせなら母校の大学病院で働く奴らが経験できないことを経験してやる、この目のせいで人生が変わるならいっそとことん変えてやる、なんて開き直りもあった気がする。
 前向きなのか後ろ向きなのかわからないが、でもこれは全て自分で決めたこと。誰に言われたわけでも用意されたわけでもない自分で見つけた進路、それだけはとっても清々しかった。

4.結実

 東京にいるのもあと少しとなった挽歌、何かのイベントの打ち上げに顔を出したところ、たまたま同じ店にいた音楽部の後輩・川ちゃんと再会した。僕が5年生の時の1年生なので学年はかなり離れているのだが、演劇好きの彼女が音楽部のライブに『演劇バンド』というミュージカルさながらの新しい風お吹き込んでいることは知っていた。そんな話で盛り上がり、最後に一緒に何かやろう、そうだ音楽部だから音声ドラマを作ろうかという話になった。
 そこからは楽しい打ち合わせの日々。気の良い仲間たちもたくさん参加してくれることとなり、おそらく音楽部史上初のラジオドラマの製作に着手した。脚本・演出・録音・編集だけでなく、声優もBGMも挿入歌まで全て自分たちでやるという完全オリジナル作品。
 もちろん僕にはもう時間が残されていない。みんなだって学生なのだから日々の勉強や部活で忙しい。そんな中でもなんとかスケジュールを合わせてスタジオに入った。今思い出してもあんなにテンションの高い濃密なスタジオ使用はなかった。川ちゃんの指導のもとみんなで演技に挑戦、挿入歌をみんなで合唱、その場で生まれたアイデアもどんどん盛り込みながら至福のレコーディングは終了した。

 内容は音楽スタジオで殺人事件が起こるという推理劇。音楽と推理小説の融合でもあり、僕にとってはまさに創作活動の集大成と呼べる最後のエンターテイメントとなった。こうして誕生したのが当サイトの放送室にも掲載している『刑事カイカン・サウンドファイル アイネ・クライネ・ナハト・マーダー』である。
 相変わらずつたない作品ではあるけれど、それでもやっぱり好きでずっとやってきたからこそ結実した奇跡のラジオドラマ。神様からの餞別のプレゼントだったのかな。これで本当に東京でやれることはやり切った、と感無量だった。

 こうして思い残すことはなくなった僕は、ついに旅立ちの日を迎えるのである。

5.研究結果

 創作活動、エンターテイメント、最高!

令和4年8月7日  福場将太