流浪の研究第七楽章 逆襲の国家試験

 生きる場所を求めて放浪していた時代を振り返るシリーズの7回目。今回は受験本番について書いてみたい。

前回までのあらすじ:
 ようやくエンジンもかかった受験対策、勉強もみっちりやって、受験会場への行き方もしっかり練習して、僕はいよいよ二度目の国家試験に臨むのだった。

1.逆転

 学生の頃は試験前は徹夜をするのが習慣だった。まず昼間に寝て、日が暮れてから覚醒し、そのまま夜通し勉強をしてその足で試験へ行っていた。しかしこれは学習という点ではあまりにも非効率な手法である。
 パソコンでファイルに文章を撃ちこんだ時は最後に保存作業をしないと消えてしまうように、CD-Rに音楽データを焼く時は最後にファイナライズ作業をしないと再生できないように、せっかく勉強したことをちゃんと脳みそに定着させるためには睡眠という作業が不可欠である。一夜漬けはその場しのぎには使えるが、知識はほとんど残らない。そして国家試験に必要な知識は一夜漬けで詰め込める量ではない、ちゃんと何日経っても頭に残る知識を増やさなければ太刀打ちできないのだ。そして何より、ちゃんと眠ってスッキリした頭で挑まなければ何時間も続く試験に集中力を維持できない。

 そんなわけで、普段は昼夜逆転の自分も国家試験に向けて昼型に戻すことにした。一ヶ月も見て置けば十分だろうと思っていたが、この目測が甘かった。一度沁みついてしまった生活リズムはなかなかしぶとく、一瞬戻ったように思えてもまたすぐ乱れてしまったりで、なんと国家試験が目前に迫っても夜型生活のままだった。
 そして最悪のタイミング、国家試験前夜に全く寝付けなくなってしまった。試験の緊張も影響したと思うが、早々に布団に入ったのに眠気が来ない。気付けば数時間が過ぎ、シンデレラのタイムリミットを過ぎ、丑三つ時を過ぎ、ついには窓の外が明るくなってきた。
 正直この時の焦りと情けなさは思い出したくない。一生懸命勉強して、最後の最後に眠れないなんて、本当に悲しくて涙が出そうだった。結局目覚まし時計を鳴らす意味もなく朝を迎え、僕はそのまま試験会場へ向かうしかなかった。

2.睡魔

 徹夜明けでもやるしかない。むしろナチュラルハイで冴えている感覚、そんな頭で僕は問題を解いた。虫眼鏡も持ち込んで、マークシートも丁寧に塗った。
 なんとか気力で乗り切ったがこれで終わりではない。試験は三日間あるのだ。しかも初日の夜には予備校で対策講義なるものも開催される。本日出た問題を踏まえて、二日目はきっとこんな問題が出るという予測を予備校がしてくれるのだ。正直さっさと家に帰って寝たかったが、そこは小心者の小市民、万が一その予測が当たったら…と思うと聞かないわけにはいかなかった。
 予備校には今日一日試験を受けて疲れているはずの多くの受験生が詰めかけていた。講師も含めてみんな目が血走った妙なテンションだった。
 頭に入ったような入っていないような講義を聞き終えて帰宅。さあ寝るぞ、とベッドに倒れたらなんと悪夢が再び。今度は疲れすぎて神経が冴えて寝付けないのだ。また布団の中で悶えながら長い夜が過ぎていった。

 そしてほとんど眠れず、もはやハイテンションなのかロウテンションなのかもわからない頭でフラフラしながら二日目の試験へ。無心というか我武者羅というか、ただ修羅のごとく問題を解き、マークシートを塗った。そしてその夜も最後の対策講義が開催。もうどうやって予備校まで移動したのかも憶えていないくらいだったが、それも聞いて帰宅、ベッドに倒れる。そしてまた…寝付けない!

 寝たのか、寝ていないのか、感情すらなくなった状態で翌朝三日目の試験に向かう。そして帰宅後、僕は「死んだように眠る」というのを初めて体験することとなった。
 今でも時々夢に見る。あの三日間は本当に地獄だった。それもこれもちゃんと睡眠がとれなかったことが元凶。受験生のみなさんには体調管理はもとより生活リズム作りを何より優先していただきたいと切に願う。

3.合否

 ひとまず人事は尽くした、後は天命を待つのみ。それから結果発表までは好きなことをして過ごしたように思う。またドリームライブに出たり、小説を書いたり、あとやたらにスーパーファミコンのマリオカートをやっていたのを憶えている。
 発表まであと数日となった頃、さすがにピリピリしてきたが、広島にいる友人…前にも書いたアカシア時代の図書委員長…がご両親と上京して食事に誘ってくれたのでそこに出向いた。中華料理のお店で、あんなに肉厚な北京ダッグを食べたのは初めてだった。食後は友人とカラオケにくり出し、落ち着かない不安な時間を彼が紛らせてくれた。

 そして結果発表当日。ネットでそのページを見ると…番号があった。飛び上がる様な嬉しさはなかった。でもやっぱりほっとした。そして電話で伝えた両親は僕以上に喜んでいた。父親などは「人生で一番嬉しい」と耳を疑うようなことまで言っていた。子供が褒めてほしいことと親が褒めたいことはこれほどまでにずれているのか、と愕然としたけれど、ひとまず高い学費を出してくれた親に対して最低限の義理は果たせたのかなと思った。
 とはいえ僕の場合はこれで人生が大きく切り拓かれるわけでは全くない。通常は就職先や研修先をすでに決めているものだが、正直そんな余裕はなかった。将来医者をやろうとかそういうことは考えず、とにかく今目の前にある国家試験だけに集中していた。そして網膜色素変性症そのものも何も変わっていない。
 手にしたのは医療業界に乗り込むことができる一枚のチケット。この路線を進んだとしても目が見えなくなれば道半ばで結局途中下車するかもしれない。それなら最初から別の路線を選ぶべきではないのか? ここにきてまた僕は往生際悪く葛藤する。

 チケットを使うか使わないかを決断するのには最後の一押しが必要だった。そしてその一押しをしてくれたのが、中学時代に僕の人生を大きく変えてくださったあの人なのである。

4.研究結果

 戦争が終わった。勝ったのか負けたのかはよくわからないが、とにかく生き残った。

令和4年3月1日  福場将太