仕事の流儀…というほどでもないが

みなさんは仕事や趣味活動について、何かやり方のこだわりのようなものはあるだろうか。ペース配分、エネルギー配分、器用な手並みに不器用な手並み、効率の良い手法に悪い手法、受験勉強と同じできっと人にはそれぞれに合ったやり方があると思う。今回はそんな研究である。

まず前半戦は僕のこだわりの一つ、『複数同時進行』について書いてみたい。

1.ルーツは学生時代から

例えば今やライフワークとなったこのホームページの更新、音楽室・図書室・放送室・研究室という異なる四種類の原稿をいかに準備するかが重要だ。もちろんそればかりやってるわけにもいかないので、並行して本業の仕事、所属しているゆいまーるやNEXT VISIONの活動もつつがなくこなさねばならない。つまり複数同時進行である。

複数同時進行は確かに大変な面も多い。俳優の田村正和さんは一つずつしか仕事を受けなかったという話を聞いたことがあるが、たくさん手を広げずに一つのことに集中する、というのはとても実直な取り組み方だと思う。だが僕はどうもそれが向いていないらしく、同時にいくつかのやることがあった方がやりやすく感じる。

そのルーツは大学生の時。僕は体育会系の柔道部と文化系の音楽部という二つの部活に所属していた。柔道部は夏と秋の大きな大会に向けて普段は週3回の稽古が基本、時には土日に遠征稽古、春と夏には合宿、お正月には寒稽古があった。一方音楽部は夏と冬の大きなライブに向けて普段は週一回の練習が基本、ただしそれはバンドメンバーがみんなで合わせる練習であり、その日までに個人練習で自分のパートを固めておかなければならなかった。また土日には他大学のメンバーと組んでいるバンドや学園祭の企画バンドの練習、他大学のライブも見に行った。春と夏には合宿もあった。音楽部では役職も就いていたので部内で問題が起れば夜を徹しての話し合いなんかもあった。もちろんこれらは学業と並行しながらの話である。

今から思えばかなりの過密スケジュールだった。大学の講義の後で柔道部の稽古、みんなで夕食を摂って解散後に今度は深夜に音楽部の仲間と集まって朝までオール練習、明け方そのまま大学へ行って始業時刻まで教室で眠る…なんてことを日常的にやっていた。さすがに幹部学年となった4年生では多望が限界を超え、柔道部の負担を減らしてもらったり、学業成績が急降下したりといった弊害も生じてしまった。

まあ若いからこそできた無理だったんだろうが、この経験はその後の人生において大きな糧となった。

音楽部の同期で同じく体育会系の部活と兼部していた山田くんは僕以上に過密な学生時代を送っていたが、お互い社会人になった後でよく言い合った…「あの頃の忙しさと比べたらなんてことないね」と。

これは単純にタフになったということではなく、複数のことを同時にこなすエネルギー配分を習得できたということだと思う。この後オールでバンドの練習だとすると柔道の稽古はどれくらいのエネルギーでやればいいか、明後日までにレポートを書いてその翌日までにギターの演奏を完成させるとすると、今日どれくらいレポートを書いてどれくらいギターを弾いておけばよいかなどなど、もちろん計算を間違えてエネルギー切れを起こすこともあったが、そこは若さで乗り越えながら、少しずつエネルギー配分、スケジュール調整、切り替えの力を身に付けていった。

綱渡りも何度か経験した。二つの部活の納会が重なった時には、途中で抜け出して両方の会場を行ったり来たりして乗り切った。まるでドラマ『やまとなでしこ』で同時に二つのデートをこなす桜子さん、あるいは映画『ミセスダウト』で女装して家政婦になったり戻ったりする大忙しのお父さんである。

山梨県の音楽部の合宿が終わった足で今度は北海道へ飛んで柔道部の合宿の最終日だけ参加、なんてこともあった。さすがにクタクタ過ぎて移動中ずっと眠っていたのを憶えている。

2.専業 vs 兼業

やっぱり手の広げ過ぎはよくない。何でもかんでもやろうとすると全てが中途半端になってしまうし、所属する団体が多過ぎると結局どこでも存在価値がなくなってしまう。無理なことまでやろうとするとたくさん迷惑をかけてしまう。

ただ自分のキャパシティを超えない程度で世界をいくつか持っておくのはとても大切なことだと僕は思う。学生時代、二つの部活をやるのは大変だったが、思い出も倍増したのは間違いない。それに音楽部のライブを柔道部の仲間が見に来てくれたり、柔道部のイベントで音響や楽曲製作を頼まれたりと、相乗効果もたくさんあった。どちらかの部活で行き詰った時は、もう一方の部活が救いになってくれた。

社会人になった今もそう。僕は現在複数の病院で診療をしているが、それぞれの楽しさがあり、苦しさがあり、一つの病院で悩んでいたことのヒントが別の病院で見つかったりする。本業の傍らでライフワークの創作活動、ゆいまーるやNEXT VISIONの活動をすることも、肉体的には疲労しても精神的にはむしろリフレッシュになっている場合が多く、色々なことをするからこそどの作業もいつまでも飽きずに新鮮でいられるような気がするのだ。

まあ時には全部ほっぽり出して一日中ライフワークに勤しみたい時もあるが、不思議なもので連休になると途端に熱が冷めたりする。仕事から帰った後の短い時間、ちょっと物足りない時間だからこそ音楽や小説への情熱が湧いて至福の時を味わえるのである。

ドラマ『古畑任三郎』の『忙し過ぎる殺人者』という話にマルチプランナーという肩書きで働く犯人が登場した。彼は業界を越えて様々な仕事に関わり、ついには携帯電話で打ち合わせをしながら殺人までやってのける。きっと彼も色々な世界に関わるからこそ相乗効果で生まれるエネルギーを原動力にしていたんだろう。

また複数の連載を同時にこなしていた手塚治虫先生、「それなのにどの作品のクオリティも高いのはすごい」と賞賛されるが、もしかしたら「それなのに」ではなく、複数同時進行だったからこそどの作品もクオリティを高められたのかも…なんて勝手に想像したりする。

3.どの世界も大切に

そんなわけで学生時代の癖が抜けず、今も僕は複数同時進行が好きだ。残業で書類を作成していて疲れてきたら小説執筆、それも行き詰ったら今度はゆいまーるの原稿を書いて、ちょこっとギターも弾いてからまた書類作成に戻る、なんてこともよくやる。病院のデイケアで合唱プログラムをやっていた頃は、明るくギターを弾いてみんなと歌い、合間の15分休憩に診察室へ戻って臨時受診の患者さんに対応、終わるとまたデイケアルームに戻って歌う…なんてこともやっていた。

けしてそれがよいやり方だとお薦めしているわけではない。かなり不謹慎で節操がない姿に見えるかもしれない。ただどれも真剣にやっているのは本心。本業の仕事も、ライフワークも、その他の活動も僕にとって優先順位はない。もちろん予定がバッティングした時は本業を優先することにしているが、普段どっちが大切と言われても、どっちも大切としか答えようがないのである。これからも相乗効果でお互いにエネルギーを与え合ってくれる複数の世界を大切にしていきたい。

さて、ここまでこだわりの一つである『複数同時進行』について研究した。後半戦はもう一つのこだわり、『しめ切り厳守主義』について研究してみよう。

4.創作活動の宿命

仕事の原稿にしても、ライフワークの小説にしても、執筆においていつも不思議に思うことがある。書き上げた時は、何度も見直しをして修正を加えた後なので、それこそ今できる最高の仕上がりになったと思っている。しかし、数年経って読み返すと、別の表現にすればよかったとか、ここは言葉が重複してリズムが悪いとか、気になる箇所がどんどん出てくるのだ。時には致命的なミスを発見することもあり、どうして当時は気付けなかったんだろうと悔しくなる。

だがそれは創作活動の宿命ともいえる。人は変化しながら生きている。技術も感性も変わっていく。昔の作品に未熟さを見つけるのは、きっと成長の証でもあるのだ。

激流の中で揉まれているプロの作家はもっとそうだろう。世間からは名作だと評価されている作品でも、作者にはきっと気になる箇所がたくさんあるに違いない。だから時として、古い映画をCG処理したり、古い小説に加筆修正を加えたりして発表し直す作者もいる。でもこれが創作の難しいところで、大抵の場合、未熟でも元々の作品の方が味があって良かったりするのだ。

歌唱力などはもっと顕著。百恵ちゃんのように十代にしてとんでもない領域に達している方もいるが、多くの歌手はデビューから年を追って聴いていくと歌唱力はメキメキと向上していくのがわかる。特に新曲というのはまだ歌い慣れていない段階でレコーディングしている場合が多いので、その後コンサートなどでどんどん曲が体に馴染んでいってどんどん歌い方が上手くなっていることは少なくない。かといって今レコーディングし直した方がいいかというと、必ずしもそうでもない。リメイクがオリジナルになかなか勝らないのがやはり創作の面白いところである。

5.自由と制約

学生時代にも音楽部の先輩とレコーディングをするタイミングについて話したことがある。もっと時間を置けば歌も演奏も上手になる、もっと良い歌詞だって思い付くかもしれない。しかしそれではいつまで経ってもレコーディングできず、人生の最後に一曲しか発表できないことになってしまう。それにあまりに時間を置くとこなれ過ぎて、新鮮さや勢いが削がれてしまい、音楽にとってはそれも魅力半減になるのだ。

作品を完成と見なすタイミングというのは本当に難しい。そこで重要になってくるのがしめ切りの設定である。プロの作家には必ずしめ切りがある。プロのミュージシャンにも必ずレコーディング期日がある。もうちょっともうちょっとと言っていたらいつまでも完成しない。泣いても笑ってもタイムリミットまでに精一杯やったものが完成品、今回残った後悔や未熟さはまた次の作品で活かしていく。それが職業作家のあるべき姿ではないだろうか。

自分の納得がいくまで手を加え続ける、何の時間的制約もなく創作に打ち込む…そんなスタイルが取れるのは人間国宝級の巨匠か、よっぽどのパトロンがいる自由芸術家でもなければ無理な話であろう。有栖川有栖先生の小説『双頭の悪魔』には、閉鎖的な村で協働生活をしながら自由に創作活動を行なう芸術家たちが登場する。大衆娯楽を超えた創作スタイル、そこは芸術家たちの理想郷にも思えるが、村を出るべきだ、開放すべきだと考える者も出て来たりするのが興味深い。自由過ぎる創作にもやはり難点はあるようである。

だから僕はしめ切りが大切だと思う。仕事で書く原稿には必ずしめ切りがあるので有り難い。このホームページも年間の更新スケジュールを定め、自分でしめ切りを課して原稿を作っるようにしている。タイムリミットだからここまで、と修正作業を止めるのは妥協のようにも思えるが、そうしないとどんどん更新がグダグダになってしまう。前半戦で書いた複数同時進行をこなすにも、しめ切りの厳守は絶対に不可欠である。

6.人生が有限な理由

こんな考え方になった一因には、幼少時に母親から言われた言葉が大きく心に残っているからだと思う。とあるクイズ番組で、老いた一休さんが死に際に遺した最後の言葉は何だったでしょう、という問題が出た。答えは「死にたくない」だったのだが、それを見てからというもの僕は子供心に死ぬのがたまらなく怖くなってしまい、何度も母親に「どうして死ななくちゃいけないの?」と尋ねるようになった。

ある時母親はこう答えた、「人生が永遠だったらみんなだらけて誰も頑張らなくなるから」。

その時はピンとこなかったが、年齢を重ねた今はその意味を痛烈に感じている。
命は永遠ではない。一分一秒はとても惜しい。だからこそ限られた時間の中で人は最善を尽くそうとするのだ。

なんだか話が大きくなってしまったが、人生にもしめ切りがあるから頑張れる。仕事だってそう、ライフワークだってそう、タイムリミットは必ず存在する。これからもしめ切り厳守を大切にしていきたい。

7.研究結果

今年も複数同時進行で駆け抜けた一年。エネルギー切れを起こさすに年末までたどり着けたことをまずは喜ぼう。そして大晦日も一つのしめ切り、残された今年の時間で最善を尽くしたい。

令和3年12月5日  福場将太