東京で暮らしていた頃は学友が家に遊びに来てくれた。しかし北海道で暮らすようになってからは誰かが来ることは稀。まだ二十代の頃は職場の仲間と家で宴会をしたり、学生時代の友人が旅行がてら家に泊まっていったりなんてこともあったが、三十代になるとみんな家庭を持ったり忙しくなったりでそんな機会も激減、コロナの情勢になってからは一緒に買い物に行ってくれる友人がたまに来るくらいである。
そんなわけで人間のお客様は滅多に来ない我が家であるが、人間以外のお客様は結構いらっしゃる。それは昆虫。招き入れたわけではなく気付けば室内にいるので、お客様というよりは闖入者なのだが、問題なのは目が悪いとそれがどなたなのかわからないということだ。今回はそんな虫たちについて、ファーブルには遠く及ばない研究をしてみよう。
1.いらっしゃいませお客様
すばしっこいコバエくん
クーラーのない我が家では当然夏には窓を開けている。おそらくそこからいらっしゃったんだろう、デスクワークをしていると首筋や腕に何かが触れた感覚。時々耳元でブーンという羽音。急いで叩こうとしてもすぐに逃げてしまうので、結局僕は自分で自分をビンタするだけで終わる。
最初は蚊だと思ったが、友人に訊くとコバエだろうとのこと。確かに蚊のように刺されたりはしていない。コバエホイホイという物があるのも僕は初めて知った。さっそく購入して置いてみる。小さな容器の中に甘いゼリーが入っていて、それに引き寄せられてきたコバエが容器から出られなくなるという仕掛けだ。最近は水回りと仕事部屋に毎年これを置くようにしている。
そのゼリーの臭いを嗅いで思い出すのは幼い頃の記憶。カブトムシやクワガタを捕まえるために公園の木に塗った樹液が確かこんな風味ではなかったか。きっと虫たちが好む味なのだろう。
思えば子供の頃は虫たちが身近にいた。植木鉢の裏にいるダンゴムシやナメクジだって平気で触って居たし、草むらにはバッタやカマキリ、池にはアメンボ、花壇にはチョウチョウが舞っていた。夏には虫かごと虫取り網を持ってセミをたくさん捕まえたし、田舎のおじいちゃんにもらったカブトムシを育てたりした。虫たちは大切な遊び相手だったのである。
団体様のアリくん
ちょっとゾッとした話。部屋に来た友人が突然絶叫した。なんと我が家のフローリングの床に小さなアリが大量発生していたのだ。甘い物を捨てたゴミ袋を床に置いておいたのがまずかったらしく、アリたちはその袋を中心に辺りを覆い尽くしていた。友人は最初ゴミ袋の絵柄が蠢いているような気がして、よく見るとアリの大群だったので驚嘆の声を上げたのだ。
そういえばここ数日、妙に床がざらつくなと思っていた。床に触れるとパラパラと粉のように何かが触れた。調理の時に塩でもこぼしたのかと思ってウェエットティッシュで拭いてはいたのだが、まさかそれがアリだったとは。どうりで何回拭いても同じ場所がざらつくわけだ。僕は殺虫剤を購入し、彼らには申し訳ないがようやく事なきを得たのである。
虫の大量発生で思い出すのは映画『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』。インディと仲間の少年が洞窟の中を進んでいくとどうも地面が蠢いている、ライターを灯すとそれは大量の虫だったという衝撃シーン。そういえば『こち亀』にも両さんが部屋でゴキブリを大量発生させる話があった。ヒッチコックの映画にもそんなのがあったっけ。さっきは遊び相手と書いておいてなんだが、虫は大量に発生すると猛獣以上に恐ろしいのである。
画家になったコケくん
これもゾッとした話。風呂場の換気扇が壊れてしばらくそのままにしていたのだが、久しぶりに来訪した母親が風呂の壁紙を変えたのかと訊いてきた。そんなことはしていないと答えたのだが、母親がもう一度見てみるとそれはびっしり生え揃ったコケであった。コケがまるでデザインのように風呂の壁に模様を描いていたのである。
まあコケは昆虫ではないし別に実害はないのだが…やっぱり気持ち悪いのでしっかり風呂の壁を磨き、ちゃんと換気扇を修理したのは言うまでもない。
コケで思い出すのは『君が代』の歌詞。小さな石が集まって岩の固まりになり、さらにそれにコケが生えるくらいの長い歳月、君を思い続けるという意味だと習った。先日ご結婚されたお二人もどうか末永くお幸せに!
恐怖のハチくん
これはかなりヒヤッとした話。夏の終わりの頃、車で家まで送ってくれた友人が言った…玄関の上の軒先に何かあると。確認してもらうとなんと蜂の巣、思いっきりハチも出入りしていた。毎日蜂の巣の真下を通って出勤していたのかと思うと背筋が冷たくなる。そういえば一度肩に激痛を感じた日があったような…と色々考えてしまう。
その場で大家さんに連絡、間もなく駆除の専門の人たちがやってきて蜂の巣は撤去されたのである。冗談抜きで友人は命の恩人であった。
ハチで思い出すのは子供の頃に何度も見たディズニー映画『くまのプーさん』。プーさんが舐めているハチミツは本当においしそうで、ハチとの攻防もコミカルに描かれていたが…スズメバチによる死亡事故は毎年起きている。現実では遊びじゃすまないので、蜂の巣にはくれぐれもご用心。刺されて少しでも気分が悪くなったらためらわず病院へ!
幸運を運ぶトンボくん
蜂の巣のことがあってから虫の気配に敏感になっていた秋の日。なんと室内に複数の羽音が飛び交っているのに気付いた。まさかハチか?すかさずその部屋から脱出しドアを封鎖。その日はちょうど友人の実家がやっている床屋へ行く予定だったので僕は緊急事態を連絡、友人は殺虫剤を片手に飛んできてくれた。
そしてドアを開けて二人で突入。友人の目に映ったのは…トンボであった。どうやら干していた布団を取り込んだ際に一緒に入り込んだらしい。もちろん殺虫剤を噴射する必要はないので、友人はうまくトンボを誘導して窓の外へ逃がしてやっていた。
その後、予定どおり散髪してもらいながら友人の母親から話を聞く。部屋にいたのはカミサマトンボと呼ばれるトンボだそうで、死者の魂を運んでいくとか、幸運を運んでくるとか言われているらしい。「それが何匹も部屋に飛び込んでくるなんてラッキーね」と笑われた。
トンボで思い出すのはジブリ映画『魔女の宅急便』に出てきた少年の名前。彼も空を飛ぶことに憧れていたが、虫たちのように自由に空を飛んでみたい…きっと一度は誰もがそう夢に見たことがあるのではないだろうか。
冬を告げるユキムシくん
これはおまけの話。別に我が家に闖入してきたわけではないのだが、北海道では毎年のように「ユキムシを見たからそろそろ雪が降るね」という言葉が交わされる。この虫の存在を僕は雪国に住むまでしらなかった。
最初は雪の予兆を表す比喩なのかと思った。あるいは気温の低下で発生する自然現象の類かと思っていた。でもそうではなく、ユキムシは実際に存在する虫らしい。雪が降る前になると現れる妖精のような存在。一体どんな姿をしているのか、いつか目が治ったら見てみたい物の一つである。
この話で思い出すのは、虫たちは人間よりも自然の動向を知っているということ。雪を知らせるユキムシだけではない、カマキリはその年に積もる雪の量をあらかじめ知っていて、必ずそれより高い位置に卵を産み落とす。ドラえもん映画『のび太の創世日記』では、昆虫が進化した文明が描かれ人類を脅かした。ジブリ映画『天空の城ラピュタ』でも、世界征服を目論むムスカ大佐が小さな虫一匹に驚く場面がある。
自然のことを一番わかっていないのは、僕たち人間なのかもしれない。
2.失礼ですがどちら様?
そんなわけで虫たちのおもてなしにはなかなか苦労するわけだが、先日も換気のために部屋の窓を開けた瞬間に誰かが入り込んできた。天井、蛍光灯、机の上、CDの棚…ブンブンと羽音をさせながら室内をあちこち飛び回る。いつかの友人にならってうまく窓の方へ誘導しようとするのだが、なに分相手が見えないのでうまくいかない。音だけはかなり近くからしているのですぐそこにいる気配はあるのだが、どうしても出て行ってくれない。一瞬静かになったので出ていったのかなと思ったらまた思わぬ場所からブーンと聴こえる。またトンボならいいのだが、ハチだとするとあまり格闘するのも危険だ。小一時間試行錯誤して、結局その日はあきらめて部屋を封鎖することにした。
夜、寝室で横になって考える。今隣の部屋にいる誰かさんはどうしているのだろうか。羽音は聴こえないのでおとなしくはしているようだが、どんな気持ちで僕の家にいるのだろう。
そして精神科医の新米だった頃のことを思い出す。入院患者さんが「虫がいる!」と訴えていたので僕はこう思った…これは小動物幻視に違いないと。確かに無数の虫の幻が見えるという精神症状は存在する。アルコール依存症で有名なのだが…病室内を確認すると本当に虫が飛んでいた。その病院は山の奥にあったので、色々な昆虫、とりわけカメムシくんが日常的に来訪していたのだ。だから必要なのは安定剤ではなく殺虫剤。患者さんだからといって何でもかんでも病気に結び付けてはいけない、という良い教訓になった。
そんな懐かしさも覚えながら眠りに入り、翌朝僕はまた恐る恐る隣室の扉を開けてみた。子供の頃に虫かごに入れていたセミが翌朝には死んでいてショックを受けたことがある。まさかと思いながら部屋の中に入ると、ブンブン羽音がしている、しかもちょうど窓の辺りで。僕はぱっと窓を開けてみた。するとその羽音をさせていた何かはそのまま朝の空気の中へ飛び立っていったのである。
結局どちら様だったのかはわからないけど…一夜を共にしたのも何かの縁だ、達者でな!
3.研究結果
虫たちから見たら、人間の世界はどんなふうに見えるんだろう。視野が狭くなってしまった僕たちに、一度トンボのメガネを貸してほしいものだ。
令和3年11月3日 福場将太