流浪の研究第五楽章 のび太と自分で選んだ冒険

生きる場所を求めて放浪していた時代を振り返るシリーズの5回目。今回は国家試験への回帰線となった小旅行について書いてみたい。

前回までのあらすじ:
東京での一人暮らし、思いがけぬトラブルで脱衣所に監禁された僕は、やはりこのままでは生きていけないことを痛感するのであった。

1.模索

季節は夏から秋に傾く。両親へのアリバイ工作として引き続き予備校に通ってはいたものの、もう一度国家試験を受験しようというモチベーションにはまだ届いていなかった。初夏に西丸與一先生と出会って着火されたはずの情熱も、ここに来てまた弱りつつあったのだ。
勉強しようと机に向かってテキストを開いてもイライラしてしまう。それは心のモヤモヤのせいでもあり、視界のモヤモヤのせいでもあった。この頃になると網膜色素変性症に併発する白内障が一段階進行したようで、見える景色が白んでいた。白い紙に黒い印刷で書かれた文字が見えにくい。さらに視野の狭窄と斜視の影響により右目の映像と左目の映像が混ざり合うようになり、気を抜くとすぐに右のページの文章と左のページの文章が重なり合ってしまう。もどかしくもあり歯がゆくもあり、その度に思わず叫びたくなった。

わかっている。勉強に身が入らないのはけして症状のせいだけではない。もしこの持病がなかったとしても素直に医者になったとは思えない。だから医療の道から脱出するのなら目の病気は恰好の口実であり、有り難くもあった。
しかし現実問題として医療の道を進もうとするなら持病は厄介な弊害に外ならず、よくよく考えれば医療以外の道を進んだとしても少なからず影響はある。これからどの道に進むにしても網膜色素変性症について何らかの答え、何らかの納得を得る必要があると僕は思い至った。

さっそくインターネットで検索。すると日本網膜色素変性症協会(JRPS)という団体があり、近々眼科医を招いての講演会が企画されているようだった。今の自分の唯一にして最大の武器は身軽さ、そしてドリームライブで身に付けたためらいのなさだ。講演会場は新潟県であったが、足を運んでみることにした。

2.往路

新潟には学生時代に音楽部の合宿で来たことがあったが、地理に明るいわけでは全くない。確かJR新潟駅から徒歩で行ける距離だったと思うが、プリントアウトした地図を片手に僕はどうにか会場までたどり着くことができた。

五十人ほどの席だったか、後方の椅子に腰を下ろす。司会進行はサングラスをかけた網膜色素変性症の当事者で、「我々には今日のような曇りの方が眩し過ぎなくていい天気ですね」と挨拶していた。その後は眼科医が登壇し、おそらく病気の症状や治療についての講演をしたと思うのだが…申し訳ない、全く記憶に残っていない。ただ講演が終わった後、その先生に声を掛けたのは憶えている。
「実は医学部を卒業したのですが、この病気で医師の仕事をやれるでしょうか?」
いきなりそんなことを質問されても先生も困っただろう。確か戸惑いながらも励ましの言葉をくださったように思う。
お礼を言って会場を出る。ロビーには老若男女の網膜色素変性症の当事者やその家族。まだ自分でスタスタ歩いている人もいれば、白杖を使用している人もいた。それは過去の自分の姿であり、未来の自分の姿かもしれないのだが…当時の僕はまだそれを受け入れられていなかった。
しっかり診断は受けているはずなのに、自分だけは病気の進行という運命から逃れられるなんて何の根拠もなく思ったりしていた。この講演に来たのも、当事者としてではなく、ただ自分の進路を考える参考にするため、自分は他の患者とは違うんだ…そんな浅はかで傲慢な傍観者だった。当然良い収穫などあろうはずもない。

3.帰路

でもそんな僕に神様はちゃんと罰を与えた。外に出ると霧雨が降っており新潟の街は白に染まっていたのだ。白内障と合わさってまるで煙の中を歩いているようだった。そして根っからの方向音痴も加わって案の定僕は道に迷ってしまう。見知らぬ土地で駅の方向もわからない、夕暮れでどんどん薄暗くもなってくる。どんなに違うと否定したって自分に視覚の障害があることは認めざるを得なかった。

精一杯の論理的思考を働かせ、かろうじて新潟駅に到着し僕は電車に乗り込む。ほっと胸を撫で下ろしてシートに座り、車窓に目を向けるとやっぱり白く曇っていた。景色を楽しむ気分にもなれずイヤホンを耳に装着する。
再生したCDは『DORA THE BEST』、ドラえもん関連の楽曲を収録した昔からの愛聴盤だ。お気に入りは毎年春に公開されている映画の歴代主題歌。特に藤子・F・不二夫先生がご存命で脚本を書かれた第17作『のび太と銀河超特急』までは武田鉄矢さんが作詞をされていて、その歌詞と作品の絶妙なシンクロについては以前にこの研究コラムでも書いたとおりである。

電車に揺られながら幼い頃から親しみ続けた楽曲に心を預ける。ドラえもん映画は僕が生まれた1980年から始まった。以降毎年欠かさず製作されてきたのだが、そういえば今年だけなかったことをふと思い出す。長年声優を務めた大山のぶ代さんたちが降板され、ドラえもんアニメがリニューアル、それに伴い映画は一年お休みとなったのだ。
僕が人生の足を止めたタイミングでお休みなんて…つくづくドラえもん映画とは縁があるな、なんて勝手なことを思いながら目を閉じる。楽曲と共に蘇る歴代名場面。そしてそこに探していた答えがあることに僕は気が付いた。

4.冒険

ドラえもん映画のストーリーに魅力を与えている大きな要素は、のび太たちの冒険が最初は『たまたま巻き込まれたもの』だったのが、途中から『自分で選んだもの』に変わっていることだ。そしてその切り替わりの場面がしっかりと描かれている。藤子F先生が脚本を書かれたものは多くの作品でそうなっているので、意識的にそうしていらっしゃったんじゃないかと思う。

例えば第1作『のび太の恐竜』。太古の時代へ遊びに行ったのび太たちはタイムマシンの故障で帰れなくなり、恐竜ハンターから付け狙われる。敵の男から安全に未来へ送り返してあげようと持ちかけられるのだが、みんなで話し合いをした結果、それを断わって自力で帰ることを決意する。
例えば第3作『のび太の大魔境』。アフリカ奥地へ遊びに行ったのび太たちはどこでもドアの破損で帰れなくなり、犬の王国の争いに巻き込まれる。戦火に囲まれてもう敗北は必至という状況で王子から日本への脱出ルートを教えられるのだが、それでも一緒に闘うことを決意する。
例えば第5作『のび太の魔界大冒険』。魔法世界へ遊びに行ったのび太たちはもしもボックスを失い帰れなくなり、悪魔との闘いに巻き込まれる。ドラミちゃんが新しいもしもボックスを持って駆け付けてくれるのだが、魔法世界の仲間を助けるために再び魔界へ乗り込むことを決意する。
他にも第6作『のび太の宇宙小戦争』でも、第11作『のび太とあにまる惑星』でもそう、のび太たちにはそのまま平穏な日常へ戻れるチャンスが与えられる。別に知らん顔しても自分たちの生活には影響しない。それでものび太たちは、今度は自分から冒険に飛び込むことを選択するのだ。

ここが重要だと思う。同じ冒険をするのにも、たまたま巻き込まれたからしょうがなく闘うのと、自ら能動的に闘うのとでは意味が全く違う。出てくるパワーも異なる。藤子F先生ご逝去以降の作品にどこか物足りなさを感じてしまうのは、この要素が弱まってしまったからかもしれない。
じゃあ今の自分はどうだ?どんな気持ちで闘っている?医療のことも病気のことも、巻き込まれたからしょうがないという気持ちでやっているのではないか?だから物足りないのではないか?
自分で選んだ冒険がしたい。確かに最初は巻き込まれた冒険だったかもしれないが、それを切り替えるのだ。そして僕は今ちょうどその分かれ道に立っている。

ドラえもん映画第2作『のび太の宇宙開拓史』を思い出す。偶然部屋の畳の裏が遠い惑星とつながり、のび太たちはそこを通って遊びに行っていたのだが、二つの世界をつなぐトンネルは徐々に薄れつつあった。そんな時に惑星で知り合った友達が助けを求めてくる。畳をめくるともうトンネルは消えかけている。あとどれくらいもつかわからない。でも今行かないとチャンスは永遠に失われる。のび太は自分の意思で飛び込むことを選択するのだ。
僕の視力もいつまでもつかはわからない。国家試験まであと半年弱、まだかろうじてつながっている道だ。この冒険に飛び込むチャンスは今しかない。その先のことは考えるな。勝つか負けるか、まずは全力で国家試験と闘おう。自分で選んだ冒険として。
馬鹿だね。人生の大事な大事な決断がドラえもんのおかげなんて。でもとっても僕らしいと思う。そして電車は景色の変わった東京へ帰り着いた。

かくして、巻き込まれたという自分の被害意識に気付いた僕は、今度は自分の選択で国家試験に挑むことにしたのである。

5.研究結果

巻き込まれたから闘うんじゃない。逃げられないから頑張るんじゃない。しょうがないからやるんじゃない。
これは自分で選んだ冒険。だから力を貸して、ドラえもん!

令和3年10月3日  福場将太