嫌なことがあっても数時間で元気になれるテクニック

眼科に定期的に通院していた頃、主治医の先生から「君はいつも明るいね。うちの医局員の方がよっぽど元気がないよ」と言われたことがある。とある病院に出向した時、そこのスタッフから「先生はすごいですね。私だったら目が見えなくなったらそんなふうに元気でいられないと思います」と言われたことがある。
正直なところ意外だった。別に自慢話でも何でもなく、僕自身はそれをすごいことだと全く思っていなかったからだ。別に自分が強靭な精神力を持っているとも思わないし、嫌なことがあればしょっちゅうイライラもするしメソメソもする。そりゃあ人間ですもの、ネガティブな感情に心が覆われてしまうことは多々ある。でも改めて考えてみると、どんなにネガティブな感情に覆われても数時間後には笑っているテクニックを確かに僕は持っていた。
それはギターの弾き語り。それだけかよと思われそうだが、それだけである。ただみなさんが想像しているものとはいささか勝手が異なると思う。名付けて『弾き語りラッシュ』、今回はその方式とどうしてそれで元気になるのかを研究してみたい。

1.概要と手法

では弾き語りラッシュとはどのようなものか。用意する物はフォークギター1本、そして大きな声を出せる場所。そこに行ってギターを構えたら準備完了、後はひたすら弾き語りで歌うのみだ。
ポイントはあらかじめ構成、すなわち何の曲を歌うか決めないこと。ワン、ツー、スリーのカウントでその時浮かんだ曲をやる。そしてその曲の演奏が終わったら、またそこで浮かんだ曲を次にやる。これをただくり返していくだけ。
選曲はどこからするのかというと、それはもちろん頭の中にあるジュークボックスから。歌とギターというのは不思議なもので、一度体に入った曲の歌詞と演奏はなかなか抜けない。初めてギターを持った中学時代に教則本で覚えた曲、弾き語り雑誌を愛読していた高校時代に覚えた曲、部活で数多くのバンドを経験した大学時代に覚えた曲、精神科医になってデイケアで患者さんと合唱するために覚えた曲、さらに自分が好きで覚えた曲や自作の曲を加えるとレパートリーは優に100曲を超える。もちろん歌詞の一言一句、楽譜の音符一つまで完全に記憶している曲となるとせいぜいその半分くらいだが、弾き語りで楽しむ分には8割程度のうろ覚えで十分なのである。

そんなわけで弾き語りラッシュではとにかくランダムに演奏するわけだから、次に何の曲が来るのか、今日のラストナンバーは何なのか、自分自身でもわからないところが面白い。サザンの後にZARDが来て、ドラえもんの後にビートルズが来たかと思えば嘉門達夫が来て、石川さゆりに中学の校歌や童謡が続き、さらにスタジオジブリからテレサ・テン、ちょこっと自作の曲も挟んで最後はあべ静江で終わったりするのだ。毎回セットリストが変わるので退屈することがない。言うなれば構成のない音楽会である。

実はこれ、中学生の時からやっていたりする。当初は覚えている曲が少なかったので同じ曲ばかりやっていたが、そのおかげか今でも一番記憶に残っているのはこの頃に練習していた曲である。
ただネックはやはり場所の確保。一度自宅の駐車場でやっていたら親父に怒られたので、以降はずっとバスルーム、窒息しそうになりながらやっていた。上京後の大学時代は音楽部や柔道部の部室、就職してからは病院の体育館やみんなが退勤した後の職員食堂が僕の即席ステージとなってくれている。

2.精神面への効果

ではどうして弾き語りラッシュでネガティブな感情が吹き飛ぶのかというと、一つは単純に歌うことの効果。炭鉱夫が歌いながら過酷な労働をこなしたり、遭難者が歌いながら正気を保ったりした実例があるように、歌には精神安定効果がある。歌うと幸せホルモンのオキシトシンが分泌されるという話も聞く。
また、心にショックな出来事があった時はその日のうちに別のことで上書きをした方がトラウマになりにくいという報告もある。とある研究ではゲームのテトリスが推奨されていた。つまり、つらいことがあった日にはテトリスをしろと言うことだ。
どうしてテトリスかというと、単純作業でそれほどやる気がなくてもできるからというのが良いらしい。確かにテレビゲームはとにかく始めてしまえばやり続けられる。それほど考えなくても無心でコントローラーを動かせる。その時頭の中は真っ白になっており、これが心の傷を上書きしてくれて傷跡にならずにすむというのだ。同様にジョギングやエアロバイクといった運動も頭が真っ白になるから良いらしい。

では弾き語りラッシュはどうかというと、確かにこれも気付けば無心になっている。1曲目や2曲目の頃はまだ嫌な出来事の記憶が頭にちらついているのだが、10曲目を過ぎるともはや頭は空っぽで何にも考えていない、心ではなく体が勝手に歌って勝手に演奏しているので、頭では一つ前の曲が何だったのかも思い出せないくらいの状態になる。そして15曲目の頃にはテンションが上がっていて楽しくてしょうがなく、20曲目から25曲目あたりで気持ち良く終わるのが理想的である。
その日のうちに頭を真っ白にすることで心に傷が残らない…もちろんそんなこと計算してやっていたわけではないが、弾き語りラッシュにはどうやらトラウマ予防効果もあったようである。

3.心理面への効果

他にも色々な効果がある。例えばリラックス効果。人は幸福な記憶を思い出すと副交感神経が優位になり、心も体も安らぐ。記憶というのは不思議なもので、何か一つを思い出すとそこから連鎖して次々と蘇ったりする。この蘇る時の刺激が脳には良いそうで、認知症やうつ病の予防になるという文献を読んだ。だから人と語らって懐かしい記憶を刺激するのはとても大切なことなのだ。

弾き語りラッシュでも、懐かしい曲を演奏することで歌いながらたくさんの記憶が刺激される。サザンを歌えば初めて文化祭のステージに立った時のことを思い出す。嘉門達夫を歌えばラジオのハガキ職人だった頃を思い出す。岡本真夜を歌えば広島のフラワーフェスティバルのライブで最前列を取るために朝から並んだことを思い出す。ジュリーは父親が、テレサ・テンは母親が、Kinki Kidsは妹が好きだったからその曲を歌えば家族を思い出す。ドラえもん、姫ちゃんのリボン、トトロにラピュタ、南くんの恋人、BACK TO THE FUTURE…大好きな作品の主題歌や挿入歌を歌えば、それらに夢中になっていた頃の気持ちを思い出す。そして自作の曲には、一緒に演奏してくれた仲間のことや完成した時の喜びなどたくさんの思い出が詰まっている。
色々な曲を歌いながら、たった数時間の間に僕は懐かしい心をたくさん旅することができているのである。そのリラックス効果は計り知れない。

そしてもっと単純に、弾き語りラッシュは達成感や全能感をもたらし自己肯定感を高める効果もある。つまりそれは上達の喜びであり、声帯は筋肉なので数多く歌えば歌うほど鍛えられて、これまで出なかった高い声や長い声も出せるようになっていく。ギターだって、やればやるほど上達していくのは間違いない。
そのわりには大して上手くないぞというツッコミが入りそうだが、下手の横好き、されど好きこそ物の上手なれ。前より技術が上がったと感じられた時はやっぱり嬉しく、大いなる勘違いではあるが、自分はすごいんじゃないかと一時的に思えてしまうのである。

4.身体面への効果

そして僕の様な運動大嫌い人間からすれば、弾き語りラッシュは運動不足解消にも役立ってくれる。腹から歌えばそれなりに体力を使うし、弦をかき鳴らす右腕は特に運動量が多い。さらに両足で足踏みしながらリズムもとるので一応全身を使っている。有酸素運動…になっているかはわからないが、弾き語りラッシュをやった翌日はなんだか身体が軽くて、職場の階段も6階まで駆け上がっちゃったりできるのである。
もちろん数時間弾き語りをしたってアスリートと比較すれば些細な運動量だろうが、これでも汗びっしょりになるから、特に夏場にやる際には着替えと水分が必携である。ちなみに冬場にやる際にはマフラーとダウンコートが必携。さすがに個人的な趣味で職場のストーブを使うわけにはいきません。

5.応用と実践

マインドフルネスや自律訓練法のように、弾き語りラッシュが正式なメンタルケアの手法として認定されることはないだろうが、もし歌が好きでギターをかじった人は騙されたと思って試してみてほしい。ただいきなり30曲やると翌日反動で腹筋や背筋が大変なことになるので、まずは10曲くらいからでもどうぞ。安定剤やお酒よりも効果的ですぜ。

くり返しになるが、ポイントはあらかじめ構成を決めずにその場で瞬発的に浮かんだ曲を歌うこと、そして歌詞や楽譜を見ずに記憶だけで演奏すること。この点がカラオケとの一番の違いであり、何も考えずに無心でやる、言い換えれば文字どおり夢の中にいるように夢中でやることが重要なのである。

応用編としては、選曲に少しお題を与えるのも面白い。完全なランダムではなく、今日はサザンだけ、ミスチルだけといったアーティスト縛り、女性シンガーだけ、90年代だけ、夏の曲だけ、フォークソングだけ、北海道関連の曲だけ、洋楽だけといったジャンル縛りもよい。そうすると数年ぶりに思わぬ曲が飛び出してきてこれもまた面白いのである。

6.副作用と弊害

そんなわけで弾き語りラッシュは、視力を失っても変わらず自由に動き回れる世界として僕の一生の娯楽になることは間違いない。こんなに楽しくて気持ちがいいことが日常の中にあるのだから、例えどんなに嫌なことがあってもきっとやっていけるんじゃないかと思えたりする。
ただ弊害としては、例えば誰かともめて険悪なムードになった時、僕は弾き語りラッシュでもうスッキリして翌日を迎えるのだが、相手はまだ引きずっていたりすると、その温度差で相手をさらに怒らせてしまうことだ。また自分一人だけでご機嫌になって満足してしまう分、結婚願望はどんどん希薄になっていくのも重大な副作用であろう。ギターを抱いて歌いながら孤独死…というのが幸福か否かはもう少し結論を先送りしたい。

一時期は週に数回、年間100回以上やっていたこの弾き語りラッシュも、昨年からは月に一度やるかどうかといったペース。それは言うまでもなく新型コロナウイルスの影響。一人で歌うことにそれほど感染リスクがあるとは思えないが、やはり体力温存のためについつい自粛してしまっている。
もちろんコロナ情勢を乗り切るには心のパワーも必要なので、そのためにも時々はやらねばと思う。先月も緊急事態宣言発令の前夜に久しぶりにやってみたのだが、とても調子良く歌っていたのにちょうど10曲目が終わった瞬間にギターの弦が切れてしまった。このまま30曲やっちゃおうと思っていたので残念だったが、でもきっと…これは音楽の神様の思し召しだったんだと思う。
「こら、今はそのくらいにしておきなさい」
はいはい、わかっておりますとも。

7.研究結果

嫌なことを忘れさせ、心が元気になるテクニック、その名は『弾き語りラッシュ』。
ままならぬことだらけの世界だから、思いのままに声を出そう、ギターを鳴らそう。自由にならない喉で、誰より自由に歌ってやろう。
とはいえこの方法、ド変人の僕以外に適用になる人がいるのだろうか?

令和3年9月2日  福場将太