流浪の研究第一楽章 アカシア100周年記念式典

春は最も残酷な月である…という書き出しで始まる有名な英文学があるが、この旅立ちの季節もそれができない者にとっては確かに苦しいものかもしれない。例えば進学や就職、うまくいった人ばかりでないのは当たり前だ。偉そうに書いている自分もそんな不安な春に立っていたことがある。
東京で医大を卒業したものの、国家試験に落ちて学生デモ社会人でもなくなった春。そんな自分が縁もゆかりもない北海道で精神科医をやるに至るまでのプロセスは、以前に『旅立つ理由』というコラムでも書いたが、あれは言うなれば表向きのプロフィール。今回はあのコラムでは触れなかった部分…裏事情というわけではないが、もう一度受験しようと思い至るまでに心がたどった軌道について掘り下げてみたい。BGMをつけるなら、やはりここはシューマンの合唱曲『流浪の民』であろう。「なれし故郷を放たれて夢に楽土求めたり」という素晴らしい歌詞にあやかりながら、生きる場所を求めて放浪していた時代を思い出してみたい。そして自分を導いてくれた人たちに改めての感謝を伝えたい。
何回かに分けて書いていく予定だが、結論を先に言っておく。自分の人生においてあれほど有意義な時代はなかった。

1.解放

まずは国家試験の不合格を知った時の気持ちを思い出してみようか。一言で表現するとそれは「ほっとした」である。何を強がりをと思われるかもしれないし、実際に強がっていたのは否定しない。それでも僕はあの時間違いなくほっとしていたのだ。
残念ではなかったというと嘘になる。ただ全く意外な結果ではなく、むしろそりゃそうだよなというくらい受験勉強に身が入っていなかった。その表向きの理由は持病の視力低下の進行、そして本質的な理由はそもそもの医師になることへの迷いである。

高校生の時には大学進学をするしないで親ともめた。医学部在学中もこんな教育のあり方はおかしいとぼやいていた。割り切りが悪く、大多数に群れたくない天邪鬼…要するに目が見える見えない以前に僕は厄介な性分なのだ。かといってアウトローになる度胸もない小心者であり、うだうだ言いながらも結局足を止めずに道なりの人生を歩いてきたのがこれまでの自分だった。だから、国家試験の不合格は…非常におこがましく嫌味な表現だが…やっと転ぶことができたという安堵だった。

2.帰郷

4月になって僕はひとまず広島の実家に戻った。学生時代はお盆も正月も帰省しないことがほとんどだったので、期限もなくのんびり過ごすのは本当に久しぶりだった。両親は少なからずあたふたしているのが見え隠れしていたが、祖母は大して気にも留めずといった調子で、さすがに戦火の中を生き抜いた人は孫の不合格くらいでは動じないのだなと感心し、また僕にはそれが有り難くもあった。

そんな折に一つの報せが届く。アカシア100周年の記念式典が近く広島で開催されるというのだ。アカシアとは広島大学附属中・高等学校の愛称であり、僕がそこで数々の心の学びを受け、未だに尽きない母校愛を注いでいるのはこれまでのコラムでも書いてきたとおりだ。その同窓会は公式にアカシア会と名付けられており、広島を本部としてその支部は日本各地にある。支部単位で定期的に集会を行なっていて、僕も上京した頃に東京アカシア会の集まりに一度参加したことがある。100周年記念式典は日本中から開院たちが集まってくるわけで、まさにアカシア会の集大成とも呼べるイベントであった。
地元に戻って暇をしている時にこの誘い…僕は妙なタイミングを感じた。そして当時広島にいた友人…アカシア時代は図書委員長で後に東京で物理学者になる男…と相談し、共にこの歴史的瞬間に立ち合うことにしたのである。

3.式典

約束の地は広島国際会議場フェニックスホールであった。受付で校歌や学園歌を収録したCD、学校の歴史を振り返るDVD、校章を象った文鎮などなど、ヘビーアカシアンくらいしか喜びそうにないグッズをまずは入手。
その後の式典はいくつかの会場に分かれて行なわれた。僕らが入ったのは別会場の一つだったが、プロジェクターにはメイン会場の様子が中継されていた。そこに映し出されていたのは、肩を組んで笑顔で校歌を歌う年配の会員たちの姿。それは本当に嬉しそうで、本当に楽しそうで…全く面識はない先輩たちなのに、自分と同じアカシアの卒業生であることが不思議と伝わってきた。自分もかなりのヘビーアカシアンだと思っていたが格の違いを見せつけられた。

今から思えば、原爆で校舎も校庭もそこに生えていたアカシアの木も消し飛んだ後、また青空教室に集って授業を再開しそこから学校の復興を成し遂げた功労の世代もいたのだろう。ならば100周年がどんなに幸せなことか。もしも祖父がもう少し長い気していたら、必ずメイン会場にいて仲間と歌っていたに違いない。いやアカシア好きのあの人のことだから、ちゃっかり魂はそこに遊びに来ていたのかもしれない。
グラス片手に友人とそんな幸福に満ちたプロジェクターを眺めつつ、「150周年の時には僕らが肩を組んで歌っているのかもしれないね」なんて語らい、僕らは静かに帰路に着いたのである。

4.会員

記念式典に参加して感じたこと。それは自分はアカシア同窓生なんだということ。国家試験に落ちた敗北者だろうが、行き先も決まっていない風来坊だろうが、いずれ目が見えなくなるかもしれない難病患者だろうが、例えそうであっても自分がアカシアを卒業した事実は一生変わらない、アカシア会のメンバーズカードは失われていないのだ。
全ての居場所がなくなったわけではない…そんな当たり前のことを実感して、間もなく僕は東京へ戻った。まだ道は見つかっていないけれど、故郷で腰を下ろすのはまだ早い。振り返ればそこにアカシアがある、それで十分だった。まあよくよく考えればこのねじ暮れた性分はアカシアによって育まれた気もするが、まあそれは言うまい。
もし国家試験に合格して医者をやっていたら広島に戻る余裕はとてもなかっただろうから、そうなると100周年記念式典に参加することもなかったに違いない。これもお導き…アカシアの神様の深い思し召しがあってのことでございましょう。

かくして、にわかにエネルギーを得た僕は東京での生活を再開するのである。

5.研究結果

アカシアの神様、深く感謝しております。そしてじいちゃん、あなたの意志を継いでちゃんと式典に出ましたぜ。

令和3年4月11日  福場将太