雪深い北海道、一人では出歩くこともできない僕が単身生活を続けられているのは、ひとえに買い物に連れ出してくれる友人、おすそ分けをくれるご近所さん、差し入れをくれる大家さんといった優しい人たちのおかげである。気温は氷点下でも、この街はとても暖かいのだ。とりわけ友人の存在はライフライン。一緒に買い物に行く時間は、職場と家の往復しかない毎日の中で、数少ない外出の楽しみともなっている。
今回はそんな日常の中に潜む、世紀の奇病について研究しよう。
1.症状再燃
友人とコンビニに行った時のこと。菓子パンコーナーにて僕は思わず「コッペパンはありますか?」と尋ねてしまった。すぐに今の質問がまずいことに気が付く。友人がきょとんとするのも無理はない。
くそう、なんということだ。僕の脳はまだ冒されていたのか。蘇る忌まわしき記憶。そうあれはもう三十年近く前のこと。僕のコッペパンはコッペパンではなかったのだ。
2.風土病
わりと有名な話なのでご存じの方もおられるだろう。広島県の一部地域では世間一般でいうところのメロンパンのことをコッペパンと呼んでいる。つまり、あのまん丸で甘くて表面がちょっと堅いパンがコッペパン。一部地域と書いたように、けして広島の方言というほど広い範囲ではなく、僕の故郷である呉市を中心としたごくわずかな範囲に限られる名称の誤用なのだ。
本来コッペパンとは、給食で出るようなジャムやマーガリンをつけて食べるあの茶色い素朴なパンのこと。だがそのことを知ったのは随分時が過ぎてからであった。
無理もない。同級生も、先生も、親も、商店街も、コミュニティの全員で誤解していたのだから修正の仕様がない。まるでちょっとした集団ヒステリー、そう、言うなればこれはコッペパン症候群という風土病なのである。
3.病気の発見
自分がこの症候群に罹患していることに気付いたのは、広島市の中学に進学して同級生と話した時だ。何かの拍子にパンの話題になり、どうも僕と同級生のコッペパンの認識に齟齬があるように感じた。
確認すると、コッペパンとは味のない茶色いパンのことだという。そんなはずはない、と同じく呉市出身の友人を呼んでくると、彼のコッペパンはやっぱり丸くて甘いパンのことだった。もちろんメロンパンという名称も知っていたが、僕らにとってはメロンパンとコッペパンは同じ物であった。
かくして、教室の片隅でコッペパン議論が勃発。今のようにインターネットですぐ調べられる時代ではない。こちらにしても十年以上慣れ親しんできた名称が間違いだと言われて、簡単にはいそうですかと承伏するわけにはいかなかった。図書室で辞典を調べたり、他のクラスに尋ね回ったりした。すると、コッペパンでもメロンパンでもなくサンライズが正しいだとか、サンライズの中でもメロン風味のクリームが入っているのがメロンパンだとか、ラグビーボールの形をした真のメロンパンが存在するだとか、数々の奇説・珍説が飛び交った。
自分だけの思い込みのはずはない。だって小学校の給食の献立表には、あの丸くて甘いパンの日に『コッペパン』、普段の茶色いただのパンの日には『パン』と確かに書いてあったのだから。茶色いパンがコッペパンなら、毎日そう書いてなければおかしい。献立表は教育の専門機関である学校が発行している正式な文書だ。僕らはあれを見て育ってきたのだ。あの日々が偽りなはずはない。
しかし結局は多勢に無勢、常識とは多数決で決められる。僕はコッペパン症候群に罹患していることを認めざるを得なかった。調査結果としては、やはり患者は呉市に最も多く、JR呉線で広島市へ近付くほど患者の分布は減っていくようだった。
4.治療ガイドライン
時は現在に戻る。菓子パンコーナーでコッペパンと言われてきょとんとしている友人に、僕は言い間違えた事情を説明。そして「メロンパンはありますか?」と言い直し、所望の品を買って帰ったのである。
自分の常識が否定される経験、もちろん僕のは笑い話にできる程度のことだけど、やはり少なからずそれはつらいものだと思う。僕の仕事では現実検討ということがよくテーマになる。何が現実で何がそうではないかを考え、患者さんが現実ではないことを思い込んでいる場合は、それが妄想だと診断する。重々承知はしているが、あまりにもおこがましい仕事である。
しかし、妄想があってはならないということではけしてない。治療せねばならないのは人を苦しめる妄想、生活に支障をきたす妄想だけだ。リアリティは重要だが、人間にはファンタジーも必要なのである。
僕だって目が見えなくなってからは、視覚情報の穴の大部分を想像力で埋めている。ファンタジーの含有率が増加して現実検討はかなり低下しているかもしれない。
もしかしたら故郷の街に住む人々は、まだコッペパン症候群を自覚すらしていないのだろうか。でもいいじゃないか、まるでそれが郷土愛の証のような気もする。もしこれから広島出身の人に出会うことがあったら、ぜひ「コッペパンってどんなパンですか?」と尋ねてみたい。もしそれが丸くて甘いパンだったら、僕はきっと竹馬の友と再会したような喜びを抱いてしまうだろう。
ガリレオは「それでも地球は回っている」と地動説を信じ続けた。Xファイルに出てきたモルダー捜査官も「私は信じたい」と宇宙人の存在を追い続けた。僕だって本当はまだ負けを認めていない。
コッペパンは丸くて甘いパンのことだ。間違っている世の中に、合わせたふりをしてやってるだけさ。
5.研究結果
コッペパン症候群は広島県呉市を中心に拡がる風土病。主な症状は一部のパンの名称についてのみ特徴的な誤用をしていること。原因は不明で少なくとも1970年代から存在。潜在患者数不明。1990年代後半からは一部テレビ番組でも報道されたため、それを見て病識を持ち、自然治癒した者も多いと推測される。無理に治療する必要はない。
*このコラムはユーモアです。
令和3年2月1日 福場将太