昔も好きだった、今も好きだ、きっとこの先も大好き!そんな心の名作を研究するシリーズの十回目です。記念すべき今回は、ついにこれをやっちゃいます!はっきり言います、ハイテンションです。踊りながら書いてます。
■ 研究作品
2015年10月21日。この日が来た時どんなに嬉しかったか。子供の頃からずっと待ち焦がれていたこの日が。
人生で一番好きな映画を問われれば、間違いなく僕は『BACK TO THE FUTURE』と答えるでしょう。今更説明する必要もなく、世界中に多くのファンを持つタイムトラベル映画の金字塔。文句なしに最高の三部作です。
そのPART1が公開されたのが1985年でした。今年は35周年。そしてPART2で未来の世界として描かれたのが2015年の10月21日。そう、もうそれさえも5年前で、今自分はさらにその先の未来に暮らしていると思うと感慨深いです。
何度も観て、何度も笑い、何度も泣き、何度も心に元気をもらった本作は、僕にとって永遠のエンターテイメントです。マーティ、未来はまだ白紙なんだ!
■ ストーリー
マーティはギターとスケボーが得意な青春真っ只中の高校生。しかしうだつの上がらない父とお酒に溺れる母はすっかり冷えきり、家庭の雰囲気は淀んでいた。また彼自身もミュージシャンの夢に自信を持てずにいた。
そんな1985年10月26日、友人の変人科学者ドク・ブラウンの実験に立ち会うことになったマーティ。ドクはなんとタイムマシンを発明したのだ。その試運転の最中、トラブルが発生してマーティ一人が片道分の燃料で30年前の世界にタイムスリップしてしまう。
時は1955年11月5日。そこで見たのは自分と同じくティーンエイジャーの父と母の姿。しかも自分が介入したせいで、二人は恋に落ちるチャンスを逃してしまう。このままでは歴史が変わり、自分は生まれてこないことになる。マーティは若き日のドクに助けを求めることにした。はたして両親の仲を取り持てるのか?そして未来へ帰れるのか?
■ 福場的研究
ドクに代表されるおかしくて愛しくて印象的なキャラクターたち、時間旅行の楽しさとせつなさが織りなすドラマ…などなど魅力だらけの本作。それらは多くのファンサイトや番組で何度も特集されていますので、ここでは少し違ったポイントで魅力を研究してみましょう。
1.タイムマシンはスポーツカー
まずは本作のキーアイテム・タイムマシン。ドラえもんやその他のSF映画でも様々なデザインで登場しますが、本作ではスポーツカーのデロリアンを改造して造ったという設定が秀逸。作中でもドクが「どうせタイムマシンを造るならかっこいい方がいい」と言ってますが、まさにそのとおり!本作のタイムマシンは見た目がとにかくかっこいいのです。もうこれだけで少年心をくすぐられずにはいられません。
さらにタイムスリップの仕組みも、単純にボタンを押してワンタッチでないのがいい。必要なのは電力と速度。運転席の装置に行き先の日時を入力したら、1.21ジゴワットを起こせるだけの燃料を積んだ状態で、時速88マイルで車を走らせなければならないのです。しかも時間はワープできても空間はワープできない。あくまで今いる場所の過去や未来に転移するだけ。だからこそ転移した先で目的地まで移動する必要があり、ここでもタイムマシン自体が車であるという設定が活かされています。
シルバーのフルメタルのデロリアンがどんどんスピードを上げていき、速度が達した瞬間にまばゆい光に包まれて二本の炎の筋を残して消え去る…なんて刺激的なタイムスリップの表現なのでしょう。しかも転移した先では車体が凍り付いている。理屈は全くわかりませんが、膨大なエネルギーが奪われた痕跡のようで、不思議なリアリティを演出しています。
2.町の歴史と時計台
本作は三部作を通して1885年から2015年までの約一世紀半の間をタイムマシンで飛び回ります。しかし他のタイムトラベルを扱った作品との大きな違いは、フィールドが限局していること。前述のようにデロリアンは空間をワープすることはできないので、物語の舞台は一貫してカリフォルニアにあるヒルバレーという小さな町。どの時代に行ってもこの町。つまりシリーズを通して町の歴史が描かれているのです。
何より象徴的なのが広場にある裁判所の時計台。1885年に建造され、1955年に落雷を受け時計が停止し、1985年には時計台を保存しようという運動が起きていて、2015年にもちゃんと残っています。PART1で1955年にタイムスリップしたマーティが、壊れているはずの時計台が鐘を打っているのを聞いてここが過去なんだと愕然とするシーンは印象的。そしてクライマックスでは、燃料が切れたデロリアンを作動させるために、ドクが時計台を利用した奇策を生み出します。まさに本作のシンボルタワーですね!
次に『ヒルバレー』と記された町の看板。この形状も時代によって変わっているのが面白いです。1885年では駅にあり、歴史が変わった暗黒の1985年では剥がされて地面に捨てられており、2015年ではなんと空に浮かんでいるのです。本当にこのシリーズのスタッフは芸が細かい。
その他、町並みは移ろいながらも店の名前は時代を越えて残っており、もしかしたら代々子孫が後を継いでいるのかな、なんて想像したりします。特に『テキサコ』や『ジョーンズ』の名称はくり返し出てくるので、ぜひ探してみてください。
そういえば僕の地元にも代々続いているそんな店があったなあ…なんて、こんな所でもほっこりさせてくれる作品です。
3.相変わらずな人々
時代は移ろいますが、暮らしている人々の姿はどこかおんなじ。実は本作、メインキャストの数は意外に少ない。それは同じ俳優が特殊メイクや衣装で姿を変えながら、様々な世代を演じているからです。
三部作を通して、まるで家系図を追うようにご先祖や子孫が登場。特に主人公マーティを中心としたマクフライ一族と、ライバルのビフを中心としたタネン一族はどの時代でも登場し、どの時代でも同じような小競り合いをしているのが微笑ましい。
時代が変わってもお年寄りが「最近の若いもんは」とぼやいていたり、母親が子供に「ママの若い頃はそんなことはなかったわ」と叱っていたりするのです。まさに相変わらず。この映画があらゆる世代に愛される由縁でしょう。
そういえば僕も学生時代、試験中にA君がB君の答案を覗いていたのですが、後から実はA君のお父さんもB君のお父さんの答案を学生時代に覗いていたという話を聞いて大笑いしました。人間とはそういうものなのでしょうね。
4.生活様式と常識の対比
人々は相変わらずですが、生活様式はもちろん時代によって異なります。その対比も本作の見どころ。
例えばテレビ。1885年ではもちろん存在せず、1955年では各家庭が初めて白黒テレビを購入し、1985年では各家庭にカラーテレビが二台あって当たり前、2015年では薄型大画面で同時に複数チャンネルが見られるテレビになっています。
食事の場面でも、1885年ではその日に狩猟した獣の肉、1955年では家庭料理、1985年ではファーストフード、2015年では冷凍ピザなどを見ることができます。
大衆が集まる飲食店も、1885年ではウイスキーを飲むサロン、1955年では学生が集う喫茶店、2015年ではなんとロボットが店員を務める全自動カフェに変遷しています。
他にも2015年の世界には空飛ぶ車、電子双眼鏡、若返り手術、3D映像、指紋認証のドア、音声付の家電などが描かれていますが、PART2が公開されたのは1989年なので、今となれば見事な未来予想だったと言えるでしょう。
また生活様式の変遷に伴い、人々の常識も変わっていきます。
1955年や1985年では「天気予報なんて当たるわけない」と言っているのが、2015年では「郵便物の配達も天気予報ほど正確ならいいのに」と言っていたりします。
我らが日本に対する認識も、1955年では「日本製の物は故障して当然」と言われているのが、1985年では「日本製が最高だ」、そして2015年では日本人上司に頭の上がらないアメリカ人ビジネスマンの姿がコミカルに描かれています。よくよくセリフを聞いていると、貨幣価値も変わっているのがわかります。
ちなみに1955年では俳優だったロナルド・レーガン氏が、1985年では大統領になっているという史実も、本作で巧みに引用されています。
さらに時代が変われば言い回しが通じないのも面白く、マーティが1955年の喫茶店で「ペプシのフリー」と注文しますが、フリーとは無糖のことなのに、店員は「タダの物はないよ」と返します。マーティの口癖である「こいつはヘビーだ」も、ヘビーは大変だの意味なのに、1955年のドクは「重力が変化するのか?」と尋ねるのがとてもユーモラスです。
あるいは同じセリフを時代によって別の意味で使っているのも奇妙。ドクが「今から行く時代には道路なんかないぞ」とPART2でも3でも言うのですが、前者は2015年で車が空を飛ぶから道路がない、後者は1885年で荒野だから道路がないのです。
5.時間テロップを表示しない
よくタイムトラベルを扱った作品では、今がどの時代化を視聴者にわからせるために日時をテロップで表示しますが、本作では冒頭部分に一度表示するだけで作中にはそれがありません。しかし登場人物たちの服装や町並み、そして新聞の表記などをたくみに利用することで十分にその時代の雰囲気を出しています。
特に面白いのは「人間は手紙を書いた時、最後に署名と日付を入れる」という習慣を利用している点。これによりさり気なく今の日時を伝え、しかも「自分が生まれていない時代の日付で署名する」というヘンテコなことにもなっているのです。
また本作では、よく他作品で見られる「未来と過去を同時進行で描く」ということは一切していません。現代にいるのび太の活躍と未来にいるドラえもんの活躍を交互に挟んだりしないわけですね。時間は過去から未来に向かってしか流れない、過去が決まらないと未来も決まらない、登場人物を追うカメラは必ず一つの時代に固定する。この鉄のルールのおかげで、視聴者が時代を混乱するのを見事に防いでいるのです。
6.音楽の力
そしてもう一つ、時代の雰囲気を出すことに貢献しているのが音楽。各時代にふさわしいBGMを流すことで、今がいつなのかを無意識に教えてくれます。特に1955年にはPART1でも2でも訪れるのですが、同じBGMを流すことで「ああまたこの時代に来たんだな」と自然に感じさせてくれます。ぜひ名曲『ミスター・サンドマン』に注目してみてください。
またPART3のラストでマーティがようやく1985年に戻って来られた時にも、PART1と同じ『パワー・オブ・ラブ』が流れて、視聴者は懐かしさと安心、日常の再来を感じることができるのです。
そして音楽をやっている人間なら誰もが一度は夢見ること、「その名曲が発表される前の時代に行って演奏してみたい」、「自分のライブをリアルタイムで客席で見てみたい」という願いを叶えてくれているのも、僕が本作を大好きな理由です。
時計台のシーンと並んで、PART1のもう一つの名場面であるダンスパーティのシーン。名曲『アース・エンジェル』の中でくり広げられる若きお父さんとお母さんのロマンス、そしてまだこの時代には生まれていない名曲『ジョニー・B・グッド』を演奏してしまうマーティと観客の反応をぜひご堪能あれ!
7.タイムパラドックスの表現
タイムトラベルを扱った作品では大抵パラドックスが描かれます。本作も例外ではなく、「過去を変えてしまったせいで未来が変わる」というシーンが何度も見られます。
ただその表現がとても秀逸、写真や新聞記事を小道具として未来の変化を暗示しているのが素晴らしい。つまり過去の世界を変えることで、未来から持ってきた写真の内容が変化するのです。
例えばPART1では若い頃のお父さんとお母さんが疎遠になっていくと、未来で撮影した写真の中の子供たちの姿が消えていくという表現がなされています。他にも未来の新聞の記事の内容が変わったり、墓石に刻まれる名前が変わったり、時には町の名所のネーミングが変わったりしています。
また本作を観てつくづく感じるのは、人生の不安定さ。たった一つの勇気が未来を明るく変えたり、たった一つの悪意が未来を暗黒に導いたり、かと思えばどんな未来になっても変わらないものもあったり…本当に生きるって不思議です。
お父さんが勇気を出してお母さんにアタックしたからこそ、今自分がここにいる。先人が切り拓いた歴史があるからこそ、今の時代がある。そう考えると、どんな存在も奇跡の結晶のように思えてきますね。
8.形式美
この三部作はとてもバランスがよい。まさにシリーズの名にふさわしく、PART1から3まで様々な時代に行きますが、歴史はくり返すと言わんばかりにどこかで見たような場面が何度も登場します。しかしルーティンコメディのようでありながらけしてマンネリには至らず、なおかつ「らしさ」を失っていないという絶妙な力加減です。それは三部作をうまく色分けし、要素を配分しているからでしょう。
例えばメインとなるキャラクター。シリーズ通しての主人公はもちろんマーティですが、彼はタイムマシンで時代を旅するというメインストーリーの主人公、各作品においてはそれぞれのドラマの主人公がいます。
PART1では愛を育んでいく若いお父さんとお母さん、2ではタイムマシンを悪用する宿敵ビフ、3では恋と科学の狭間で苦悩するドクと彼に惹かれる過去の時代の女性・クララがメインとなっているのです。
またデロリアンもその都度様相を変え、PART1ではスポーツカーの姿でしたが、2ではタイヤから光を放つ空飛ぶ車となり、3ではボンネットに古めかしい機械を積んだ鉄道を走る車に改造されます。さらにタイムスリップの条件も毎回トラブルに見舞われ、PART1では電気を起こす燃料がなくなる、2では帰るべき時代がなくなる、そして3では走るために必要なガソリンがなくなる…と見事に配分されています。
9.軽妙なセリフ回し
普段僕らが使う日常の言葉や慣用句がタイムトラベルの渦中では矛盾してしまう、というのが面白い。例えば2015年での失敗を悔やむマーティにドクが「もう過去のことだよ」と言い、マーティに「未来のことだろ?」とつっこまれます。あるいは1885年に旅立つマーティにドクが「また将来会おう」と声をかけ、マーティが「今度は過去で会うんでしょ」と返すなど。こういった楽しい言葉のやりとりが本作の世界観を作っているのでしょう。
10.伏線じゃなかったものも伏線に
そして僕が本作に肌が合う最大の理由がここにあります。驚くべきことですが、とても完成された三部作でありながら、実はもともとはPART1だけの映画だったということ。つまりPART2と3は大ヒットに押されて製作された「後付」なのです。にも関わらずまるで最初から細かく計算されていたかのような三部作に仕上げた、ここにスタッフの一番の才能を感じます。PART2と3は同時製作なので繋がりが多いのは当然としても、PART1と2、そしてPART3と1も見事に絡み合わせているのはすごいです。
確かにPART1のラストには「TO BE CONTINUED.(次回へ続く)」の文字が出ます。しかしこれはビデオ版だけのお遊びで、この時点では続きなどなかった。しかし実際にPART2を製作し今度はラストに「TO BE CONCLUDED.(次回で終わり)」の文字、そしてPART3のラストでは堂々と「THE END(完結)」の文字を表示したというわけです。
スタッフの知恵の中で特にすごいと思うのは、PART1でメインキャラクターだったマーティのお父さん役の俳優がPART2ではもう出演できなくなったのに、この大きなマイナスをプラスに変えた脚本と演出。僕もPART2以降その俳優が出演していないことに全く不自然さを感じませんでした…というよりしばらく気付きませんでした。
続編を製作することになり、PART1のキャストはみんな揃ったのにお父さんがいない、そこでスタッフが考え出した奇策は「時間の流れが歪み、お父さんのいない別の1985年が出現した」という物語。これにより、いないことが脚本上の必然になりました。そしてこの設定により「時間の流れを元に戻すために、もう一度PART1で訪れた1955年に行く」という驚異の展開が生まれたのです。通常タイムトラベルのシリーズでは色々な時代へ旅する脚本になるのが当たり前。もう一度同じ時代へ行くという類を見ない発想は、お父さんの欠員なくしては生まれなかったでしょう。まさに怪我の功名です。
だからPART2は1と同じセットを組み、同じ衣裳を着て、エキストラ含めもう一度同じ演技をしてもらったのを別の角度から撮影したという、とても奇妙な映画なのです。これによりお父さんの代役の顔が写らない角度での映像も、PART1との違いを出すための演出に感じられる。しかも歪んだ未来では死亡する運命にあるお父さんですから、顔が写らないことは不吉な暗示を与える効果にも繋がっているのがうまいです。
あれ?でもPART2の冒頭、2015年の世界でお父さんは正面から堂々と写っていたぞ、動いて話もしていたぞと思われた方もいるかもしれません。でもよく思い出してみてください。彼は未来の腰痛治療法として逆さ吊りになっていました。
そう、心理学ではおなじみのトリック。「人間の顔は逆さまにすると見分けがつかない」というサッチャー錯視を見事に利用していたわけです。これに気付いた時、改めて本作のスタッフはすごいと思いました。
よろしければみなさん、逆立ちして2015年のお父さんを見てみてください、全く別の俳優ですから。
この他にも、PART1製作時点では伏線ではなかった事柄を見事に伏線に変え、それをPART2と3に散りばめて回収しているのが本作の素晴らしさです。少しだけ例を挙げると、PART1で一番最初のタイムスリップの時にデロリアンのナンバープレートが剥がれてつむじ巻きに舞うのですが、PART3で一番最後のタイムスリップの時にも同じ現象が起こっています。PART1でダンス会場を出るためにドアを開くマーティですが、実はこの行為がPART2で重大な意味を持つことになります。そしてPART1でビフがマーティに負けて馬糞に突っ込むギャグシーン、なんとこれはその後のPART2でも3でも継承されていくことになるのです。
他にも色々ありますが、ほとんど矛盾なく物語を組み上げ、続編が蛇足になるどころかそれによって不朽の三部作に昇華させているのが本作最大の魅力だと思います。
余談ですが、「伏線ではなかったことも伏線にしていく」、これは僕の人生観そのものでもあります。中学時代の部活のおかげでパソコンのブラインドタッチができる、高校時代のバンドのおかげでギターが弾ける、そして大学時代に医学部に行ったおかげで医学の勉強をしている。もちろん目が見えなくなる未来なんて想定していませんでしたが、それらの事柄はまさに予期せぬ伏線となって、今僕の人生を支えてくれているのです。目が見えなくなったことだって、未来のハッピーエンドのための伏線かもしれない…なんて思うことができています。
そんなこともあって、僕は余計にこの三部作が愛しくてたまらないのでしょう。
語り出せばきりがないですが、もしみなさん改めて本作をご覧になる際には、今回研究したポイントにも注目してみてはいかがでしょう。
僕もこの秋の夜長にまた観賞しましたが、やっぱり面白かった。もう画面は見えないけど、どのシーンも鮮明に記憶に保管されているから問題なし。35年前と比べても全く色あせていない。初めて観たあの時のドキドキがまた新鮮に込み上げてくる。
う~ん、まさにこの映画自体がタイムマシンのような作品です。
■ 好きな場面とセリフ
PART1にて。お父さんが勇気を出してくれたおかげで無事お母さんと結ばれ、寄り添う二人は感謝と共に去りゆくマーティを見送る。もちろん高校生の二人は、目の前にいる同世代の少年が未来から来た自分たちの息子だなんて知らない。しかし、マーティが立ち去り際になんとなく「将来君たちの子供が八つの時に居間の絨毯を燃やしちゃうようなことがあっても、あんまり叱らないで」と言ったのに対し、お父さんは答える…「わかった」と。
→この「わかった」が大好きです。英語版では「OK」と言っているんですが、お父さんのその優しい言い方がとても素敵。わけのわからないことを言っている風変わりで不思議な少年に対して、きっと本能的な親子の繋がりを感じた、彼の正体やどこへ帰ってしまうのかについて深層心理で理解して全てを受け止めた…あの「わかった」にはそんな意味が込められているように思うのです。その後の「マーティってとってもいい名前ね」というお母さんのセリフもそれを補完しています。
派手なタイムスリップのシーンが注目されがちですが、きっと時を超えて通い合う心、この見えない暖かさも本作の魅力なのだと思います。
■福場のタイムトラベル
1.有史以前
僕のひいおじいちゃんは、風呂敷一つで東京に出て成功したという豪快な人。仕事もお金の使い方もかなり派手だったそうです。その息子である僕のおじいちゃんは、そんなひいおじいちゃんの反動で堅実で平穏を好む性格になりました。1円たりとも借金したことはなく、贅沢にも名誉にも興味がなく、服は着られればよい、家は住めればよいといった感じで、借家に暮らして庭の草木に水をやる生活が幸せな人でした。そして大衆娯楽など悪、テレビはNHKしか見せないといった厳しい教育方針の持ち主でもありました。
ではさらにその息子である僕の親父はというと、またしてもそんなおじいちゃんの反動で芸能大好き人間になりました。子供の頃に好きな漫画やレコードを買ってもらえなかったのがよっぽど悔しかったらしく、大人になると必要以上にそれらを買いあさったそうです。
中でも親父が生涯を通して愛好しているのが映画。おじいちゃんの前ではとても口にできなかったようですが、映画監督になるのが夢だったというくらいで、知る人ぞ知るキネマ旬報という雑誌を何十年も愛読し続けました。お袋にいくら注意されても、映画のビデオをコレクションする趣味だけはやめませんでした。
2.過去
そんな親父は、夕食後に幼い僕を居間に呼び、コレクションの映画を見せることがよくありました。まあそのおかげで僕も映画好きになるのですけど。お袋はまたかといった感じで少々あきれ顔で皿洗い、まだ小さかった妹はよく内容もわからず、僕の隣に座って一緒に見てたりしました。正直小学生の時点で『犬神家の一族』とかも見せられていたので、教育上いかがなものでしょう。
そうやって見た映画の中でも、一番衝撃を受けたのがやはり『BACK TO THE FUTURE』でした。初めて見た時にその面白さに夢中になり、特にクライマックスの時計台のシーンでは全身に稲妻が走りました。PART1を見終わった後、親父が「じゃあ寝ようか」とテレビを消した時、本当はそのままPART2も3も見たくてたまらなかったのを今も憶えています。だって親父のビデオ棚にはPART2も3も並んでいたから。でもそんなこと言える訳もなく、ひたすらPART1の興奮を持て余しながら寝付けない夜を過ごしました。そして次に親父が「映画観るぞ」と誘ってくれる日をひたすら待っていました。そんな少年の日を懐かしく思い出します。
小学生の時には、ビデオカメラを使って妹とタイムトラベル物の映画を撮りました。中学生の時には、親父の夢だったユニバーサルスタジオに行き、本物のデロリアンと時計台を見て感動しました。高校生の時には、音楽の授業で本作のメインテーマを仲間と合奏しました。
さらに大学時代には、入部した音楽部でこの映画が大好きという先輩と出会い、合宿に行く時はカーステレオでサントラをかけて二人で大盛り上がり。いつかこの映画に出てくる名曲ばかりを演奏するバンドをやろうと話していたのですが、残念ながらこれは実現しませんでした。いつか先輩と再会できたら、その時はぜひやりたいと今でも思ってます。
3.現在
時は流れて、冒頭にも書いた2015年の10月21日。一応実家に電話してみると、親父の第一声は「今日は何の日か知ってるか?」でした。知ってますとも。あんたのせいで指折り2015年を待つほどの大ファンをやっているんですから。
その日は嫁に行った妹からのメールでもまた「今日は何の日か知ってる?」。しかもそのメールでオメデタの報告まで。マーティがタイムスリップした30年という時間を、僕らも確実に過ごしたということですね。親父はおじいちゃんになり、妹はお母さんになり、僕はお父さんに…はなっていませんが、ひとまずおじさんにはなりました。
そして今、誰もが予想しなかった2020年を僕は生きています。人生も四十路街道に突入しました。もし30年前の僕がタイムスリップして今の僕を見たとしたら…どう思うかな。マーティの未来が必ずしも理想どおりの姿で描かれていなかったように、僕の姿も期待していたものではきっとないでしょう。少なからずがっかりはさせてしまうんだろうな。でも相変わらずだなってどこかほっとしてもらえたら嬉しい。
4.未来
もちろんまだ白紙。目が見えなくなろうが、おじさんになろうが、未来は何も決まってはいません。まだ何もあきらめちゃあいませんぜ。
30年後にこのコラムを読み返すのが楽しみです。
1955年11月12日 福場将太