僕は広島の出身だ。平和都市として知られるこの地に生を受け、高校卒業まで暮らしていた。この夏で原爆投下から75年、今回は未だに傷が残る愛しい故郷について考えてみたい。
1.平和の教育
広島の学校では、毎年この時期になると『平和教育』というものが行なわれる。夏休みでも学校に集まり、戦争や原爆にまつわる映画を観たり、文章を読んだり、実際に体験した人の話を聞いたりしたものだ。火垂るの墓、まっくろなお弁当、白旗の少女、二十四の瞳、その他にも題名は忘れてしまったが、戦火の中お地蔵さんの涙を飲む話や千羽鶴少女の話など、特に小学校時代に触れた物語は今でも脳裏に焼き付いている。
平和教育はある意味で必須科目だったと言ってもよい。実際に市内の某中学の受験では、原爆投下の位置を地図で示させる問題が出たことがある。そのくらい広島は平和に対する意識が高く、子供たちも自然と知識を身につけていく。だから、広島から出た時、周囲の人たちがあまり原爆の日時などについて知らないことに違和感を覚えた。また、原爆を茶化したような話を聞くと、冗談でも不愉快な気分になったりもした。
しかし地域によって、重視している文化や歴史が違うのは当たり前である。逆に僕が東京大空襲や北海道の開拓について詳しいかというとそんなことはないので、みんな一様に広島と同じ意識を持てというわけにはいかない。
確かに終戦記念日には、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える番組が多く放映され、広島・長崎への原爆投下も大きく扱われる。ただ普段の報道においては、例えば核実験や原発事故に対して座り込み運動をする広島市民の姿、広島ローカルニュースと全国ニュースで扱われ方に差はないだろうか。伝えるキャスターの熱の入りように差はないだろうか。きっとある、あるのが当たり前である。
だから勘違いしてはならない。僕らが学んだ平和の教育がけして万国共通の認識ではないのだということを。国内にも温度差があるのだ、世界規模となればそれはもっと顕著になる。敗戦し、新しい憲法を作って平和主義を掲げた。過ちを認め、もう二度と戦争はしないと誓った。あくまでそれは日本の視点での話であり、世界中がそうなったというわけではけしてないのだ。戦争が身近な国、終わっていない国はたくさん存在する。先ほどの広島市民の座り込みの報道だって、世界中が賛同してくれるわけではないし、そもそも国外にどこまで届いているのかわからない。平和な時代になったなんて思っているのは、日本人だけかもしれないのだ。
それでも僕は広島に生まれてよかった。幼い心に平和教育を受けさせてもらえたことを誇りに感じている。だからこそ、ちゃんとその視点も踏まえた上で、様々な価値観や痛みを理解したいと思う。
2.戦争の痕跡
僕自身は戦争を経験している世代ではない。終戦後30年以上経って生まれた、言うなれば『戦争を知らない子供たち』を知らない子供たちだ。しかしそれでも故郷の片隅には、戦争の痕跡がいくつも残っていたように思う。
原爆ドームだけではない。幼いころに遊んでいた公園には封鎖された防空壕がいくつもあったし、謎の洋館だなんて言って探索していた建物は、鉄扉や鉄格子が爆風と熱線でへしゃげていた。病院の受付で原爆手帳を示している人もたくさんいた。確かにかつてこの地には戦争というものがあり、人々はそこに生きていたということだ。祖父や祖母の話は間違いなくこの地で起こった現実だったということだ。
そして戦争の痕跡は街の片隅だけではなく、人々の心の片隅にもたくさん残っていた。父方の祖父は写真家に、母方の祖父は弁護士になりたかったが、戦争の中で夢を追うことはできなかったといつか聞いた。僕の実家があった場所は父の祖父が持っていた土地で、戦時下で大部分は手放すしかなかった中でなんとか残せた土地らしい。「ここに住めるのはひいおじいちゃんのおかげなんだぞ」と父はよく僕に言っていた。
こんなこともあった。高校の文化祭で、仲間とやった模擬店を宣伝するためのポスターに僕は何の気なしに原爆のキノコ雲の写真を挿入していた。世界の色々な音楽を紹介する店だったので、歴史にまつわる絵や写真をたくさん載せた中での一枚だったが、それを見かけた一人の先生から「この写真はどういう意図だ?」と尋ねられた。当時の僕は「音楽で世界の平和を願いたいんです」なんていい加減な返事をしたところ、先生は「それならそれをちゃんと書きなさい。このままでは貼ってはダメだ」と厳しく言った。いつもは大抵のことは許可してくれるのん気な先生だったので、その険しい言動に僕は驚いた。そしてもう何十枚も掲示した後だったが、渋々ポスターを回収し、キノコ雲の横に平和を願うメッセージを書き添えた。
今なら自分が間違っていたことがわかる。軽はずみに使用してはいけない写真だった、配慮が足りなかったとわかる。その先生ももちろん戦争を知る世代ではなかったが、それでも文化祭の来場者たちのことを考え、正しい感覚で指導してくれたと今は感謝している。広島の人々の心にはデリケートな傷が残っている…それを思い知った経験だった。
3.祖母の記憶
父方の祖母は戦争の渦中を生きた女性だ。だからなのか、もともとの性分なのかはわからないが、僕は彼女をとても強い女性だと思う。彼女から聞いた8月6日の話は今も忘れない。
当時彼女は女学生。その日、同級生たちは校外学習で広島市から離れていたが、夏風邪を引いていた彼女はそれには参加せず、自習のために市内の学校へ朝の登校をしていた。広島駅から乗る路面電車はかなり込み合っていたが、彼女は無理矢理乗車。そして二十分ほど走って県病院前の駅で降りたところで、ピカッと光ってドカンと大きな音がした。非常事態を感じた彼女は、靴を失くしガラスをかぶりながらも近所の家に駆け込む。落ち着いてから学校へ行くもすぐ帰るように言われ、当然路面電車は動いておらず、建物が崩れて火の手が上がる街を彼女は広島駅まで歩く。そして臨時電車を乗り継いで家まで帰り着いた。兄妹たちはみんな彼女が死んだものと思っていたそうだ。
祖母は言う。「あの時風邪を引いていなければ、私も原爆には遭わなかった。でもあの路面電車に乗ったおかげで命拾いした。次の電車にした人たちは広島駅で被爆して助からなかったからね。ピカッと光った時に、私はちょうど電車の陰にいたのも運河良かった。でも母さんは運河悪かった」と。彼女の母は法事でその日市内に出ていたために被爆した。翌日発見されて家に連れ帰られたが間もなく死亡、まだ50歳そこそこだったという。
たまたま一本早い電車に乗ったおかげで、たまたま電車の陰にいたおかげで助かった祖母。ほんの数秒、数メートルの違いで生死が分かれる状況。たまたま法事に出掛けたことで命を落とした祖母の母。いつもの朝の挨拶が今生の別れになる状況。それは今の僕たちには想像もつかない世界だ。
そんな時代をくぐり抜けた祖母は、何事にも動じない。慌てふためいている姿なんて見たことがない。祖父が他界した時も、祖母は病院に駆け付けた孫たちに「おじいちゃんはいい人生を生きて死んだんじゃけえ泣くな!泣くようなつまらん人生じゃありゃせん!」と諭し、葬儀の席でも一度も涙を見せることはなかった。僕が国家試験に失敗した時も、両親は困惑していたが、祖母は「一回や二回どうってことありゃせんわいね、若いんじゃけえゆっくりやんなさい」と笑って言ってくれた。僕の目が見えなくなって以降も、祖母だけは昔と何も変わらない接し方をしてくれた。
…強い。本当にそう思う。祖母は90歳を超えるまでほとんど子供たちに厄介になることなく、単身で広島の片田舎に暮らしていた。時々電話をかけても、山歩きに行った話や美術館に行った話、女学生時代の友人と会った話、孫たちの近況の話ばかりで、つらいとか寂しいとかは聞いたことがない。数年前の土砂災害の時も、近くまで土砂が迫ってもあまりにも冷静だった。ちょっと頑固できついこともあるけど、今の僕たちにはない強さと気丈さ、弱音を吐かない根性を彼女は持っている。
4.戦争と平和
祖母の目には、今の時代はどう映っているのだろう。子供たちや孫たちの姿はどう映っているのだろう。
やりたいこともあきらめたのがあなたの世代の悲劇なのだとしたら、やりたいことが見つけられないのが今の子供たちの悲劇なのかもしれません。お国のために死ぬなんてしなくてもいい時代です。なのに自分勝手に死んでしまう、死なせてしまう時代です。
日本は平和になったのか…正直それは言えない。でも、幼い頃父方の祖父も祖母も、母方の祖父も祖母も、みんな口を揃えて言っていた。「平和な時代になったんだから、好きなことをすればいい」と。僕たちは普段暮らしていて、そんなに平和というものを実感することは少ない。もしかしたら、戦争を知らなければ平和はわからないのかもしれない。だとしたら、これからも戦争を繰り返さず平和を守り続けるためには、祖母たちの伝えてくれる言葉がとても重要なのではないだろうか。
どんな時代のどんな世代にもそれぞれの悩みがある。一概に昔と今を比べてどちらが恵まれているかなんて言えない。でも、祖母たちは今の僕たちに欠けている大切なものを確かに知っている。
戦争知らずの孫たちに祖母は教えてくれた。生きていることの素晴らしさ、生かされることの有り難さ、そしてあの夏の日の暑さを。祖母は願ってくれる。僕たちがいつまでも戦争知らずであってくれるようにと。
年寄り染みた話かもしれない。何十年も前の昔話かもしれない。でも、怖がらせるためではない。同情が欲しいわけではない。過去のいざこざを現在に持ち込もうとしているわけでもない。ただ大切だと思うから話してくれるのだ。
5.研究結果
おばあちゃん、あなたが伝えようとしてくれたことのいったいどれくらいを僕はわかっているでしょうか。おそらく半分も理解できていないでしょうが、これからも大切にしていきます。
広島の夏は今年も暑そうですね。カープはまた最下位ですが、それでも市民のヒーローで、しゃあねえななんて言いながらみんな応援していることでしょう。
残念ながら今年はコロナの影響でお盆に帰ることができません。でもまた必ず施設に会いに行くので、その際はどうぞお手柔らかに。
令和2年8月15日 福場将太