心の名作#9 走れメロス

友人との会話の中でも度々登場してセリフを真似してしまう、そんな心の名作を研究するシリーズの九回目です。

■研究作品

読書といえば専ら推理小説なので、文学青年と呼ぶには本の栄養が偏っている僕です。そもそも青年じゃないぞというツッコミはさておき、今回はそんな僕が読んだ数少ない名作文学、太宰治の『走れメロス』を研究します。真実とはけして空虚な妄想ではなかった!

■ストーリー

人を信じることができず近親者さえ次々と処刑していくディオニス王。妹の婚礼衣装を買うために町に来ていたメロスはその惨状を知り、怒りのままに城に乗り込むが捕らえられ処刑を言い渡されてしまう。必ず戻ってくるから妹の結婚式を挙げるために三日間の猶予をくれと願うメロスだが、当然ディオニスは信じない。そこでメロスは親友のセリヌンティウスの身を預けることを提案、もし戻ってこなければ代わりに彼を処刑する条件でディオニスは解放を了承する。必ず戻ると走り出るメロス、どうせ逃げると嘲笑うディオニス。はたして信頼を懸けた勝負の行方は?

■福場的研究

1.勢いの短編文学

確か高校の国語の教科書で読んだのがこの作品との出会いでした。何より驚いたのは、その文章のスピード感と迫力です。冒頭の「メロスは激怒した」の一文でいきなり物語に引き込まれ、あれよあれよといううちにもうメロスは走り出していて、あっという間に妹の結婚式を挙げ、城に向かってまた走っているのです。特に後半のボロボロになりながら疾走する場面は、過ぎ去る景色とメロスの激しい息遣いが伝わってきそうな臨場感で、まさに手に汗握る怒涛の展開、息つく間もないままクライマックスへ流れ込みます。

どうしてここまでスピード感と迫力を表現できているのか。その理由の一つは、本作は力強くて簡潔な短い文で紡がれているということでしょう。だからズバズバ頭に飛び込んでくるし、その小刻みなビートにこちらの心拍数まで上がる気がする。新傷病者をなめらかに長い文で紡いだ同作者の『人間失格』とはまるで技法が異なります。
さらに本作は余計な描写を極力排除しているのも特徴。改めて読み返すと驚かされますが、文中には最低限の説明しかありません。メロスやセリヌンティウスはどんな顔なのか、髪の毛や瞳はどんな色なのか、ディオニスは何歳くらいなのか、城はどんな外観や内装をしているのか、部屋の広さはどれくらいなのか、妹はどんな服を着ているのか、結婚式場や刑場にはどれくらいの人が集まっているのか…それらの視覚情報は全て読者の想像力に委ねられています。しかし描写の少なさはけして説明不足ではなく、読んでいて情景が浮かばない場面は1つもありません。文字数少ない簡潔な表現だけで、結婚式の宴の幸福さやラストシーンの民衆の歓声が十分に伝わってくる…見事というしかありません。
そもそもメロスとセリヌンティウスはどうして親友なのか、ディオニスはどうして人を信じなくなったのか、そういった背景も一切説明されません。今回読み返して、なんとセリヌンティウスはラストシーンまで一言も喋る場面がないことに気付きました。それなのにあの存在感。そう、余計な説明など不要、緻密な設定など無粋、メロスと彼の友情はたった一つの文章で事足りるのです…「友と友の間はそれでよかった」と。

つまり本作がスピード感と迫力に溢れ、こんなに魅力的なのは、短編文学だからこそなのです。短編だからペースを落とさず一気に読み終えることが出来る。そして文学だから余計な描写を排除することができる。この内容ならしっかり文章を裂いて長編にすることもできるでしょうし、実際にいくつか作られていますがアニメや実写の映像化もできる。でもそれでは逆に情報が多過ぎて勢いが削がれてしまい、スピード感と迫力がなくなって駄作になってしまうのです。現在僕は音声図書で本作を聴いていますが、効果音やBGMを添えた物より、ただ朗読だけした物が一番良いと思っています。
『走れメロス』は、文学という文字だけの芸術だからこそ成立した名作、読者も駆け抜けるように読んでこそ味わえる名作なのです。

2.主人公メロス

この作品はぜひ十代のうちに読んでほしい。何故ならこれはまぎれもなく青春文学だからです。そしてその青春の象徴として君臨するのがメロスという男。文中にもあるように彼はあきれるくらい単純な男です。そもそも妹の結婚式を挙げなきゃいけない奴がどうして城に乗り込んでいくんだ、妹の立場はどうなるんだ、ちょっと噂を聞いただけですぐ王を殺しに行くのはあまりにも短絡的だろう、と彼の行動にはツッコミどころが満載。そして全て自分が撒いた種なのに、親友に身代わりを頼んだり、妹の婚約者に式の日程を変えさせたりとかなり自分勝手です。でも全編通してメロスはいつもそう。彼は小賢しい計算や駆け引きなど一切しない、後先を考えない、ただ信念と情熱のままに行動する男なのです。面倒で迷惑な困った奴ですが、彼の不器用なまでのまっすぐさこそ、この作品に素晴らしい爽快感を与えているのは間違いありません。

ネタバレになりますが、物語はメロスにほだされた王の改心という形でハッピーエンドを迎えます。現実的に考えれば、いくら改心したとはいえ、あれだけ人を殺した王を民衆が許すわけがない。さっきまで処刑しようとした相手に「仲間に入れてはくれまいか」なんて頼んだって、ふざけるなという話です。でも誰もが王を許し、「王様ばんざーい!」と叫んでしまう…このあきれるくらいの大団円も、この作品が青春文学だからこそなのでしょう。

社会人になったらメロスのように生きるのはとても難しいです。計算しなくちゃやっていけない、でもそれはどこか馬鹿げてる。十代の頃にあったあのまっすぐな情熱、友を信じ敵を許せた青春、そんな爽やかな読後感を本作でぜひ!

3.テーマは信頼

信頼という普遍的なテーマを扱っていることも本作の魅力。きっと人間は誰もが、人を信じたいメロスの心と、疑ってしまうディオニスの心を両方持っていて、その狭間で揺れ動いている。昨今のニュースを見ていると、社会にディオニスの心がどんどん広がっている気がします。
人を疑い、許さず、信じられないから排除するという暴君の姿はけしてフィクションではなく、現実において十分ありうる孤独な人間の姿です。自分が相手を信じないから相手も自分を信じてくれない。疑わしい奴は殺られる前に殺る。そうなったらこの世はディオニス同士の殺し合いです。新型コロナウイルスそのものの毒性では人類は滅びませんが、もたらされた互いの不信感によって人類が自らを滅ぼすことは十分ありうるのではないでしょうか。

そして本作は人を信じることだけでなく、人から信じられた時にそれに報いることの大切さも強く説いています。「義務遂行の希望である」という一文がありますが、約束を全力で守ること、これは人間にとってとても貴い行為だと思います。僕も一度した約束にいつまでもこだわってしまう性分で、約束した相手はもうとっくにそのことを忘れていたり、重く考え過ぎだと言われたりして随分落ち込んだことがありました。一人で頑張ったり楽しみにしたりしていた自分が、何だか馬鹿らしくなった時がありました。でもこの物語を読むと、やっぱり約束を大切にするのは間違っていないんだと勇気を与えられます。
有言実行。自分が視覚障害を持ち、なおかつ精神障害を持つ人たちの就労支援の仕事をしているから余計にその重みを感じます。信頼はけして障害があるから失うわけではない。障害があろうがなかろうが、約束を破った時、できる努力をしなかった時に失うのです。

4.フィロストラトスの謎

本作で最も違和感を覚えるのがこの人物。クライマックス直前で何の前触れもなく登場し、メロスにもう間に合わないからやめろと言ったり、間に合わないものでもないから走れと言ったり。例によって説明描写はほとんどないので、この人物についてはセリヌンティウスの弟子らしいということしかわかりません。
はたして何者だったのか?そもそも風を切る勢いで全力疾走しているメロスに併走して会話するなどできるのか?
一つ前の場面で、メロスは自らの弱さと葛藤し答えを見つけています。ここに来てもう一度惑わせる役回りが必要だったのでしょうか。こんなやりとりは削除して城に駆け込んだ方がテンポもよかったのではないでしょうか。

しかしきっと何らかの必要性を感じて太宰治はフィロストラトスをここに配置したはず。確かに本作はずっとカメラはメロスを追っているので、メロスが城を離れた間、セリヌンティウスやディオニスがどう過ごしていたかは描写されません。これが映画だったら必ず同時進行で城の場面も挿入されたでしょう。その意味では、城での様子を事前にメロスに、というより読者に伝える存在としてフィロストラトスは必要です。またメロスがたどり付いた答えが揺るぎないものであることを示すための、ダメ押しの揺さぶりとしても必要だったのかもしれません。故郷への未練、川の濁流、山賊、肉体的限界、自分の弱さ…といくつもの試練と闘ってきたメロス。しかしフィロストラトスという最後の試練には全く動じず圧勝。まさにここにきてメロスは最強の状態に達しているのです。
真相はわかりませんが、部外者の中では唯一名前が与えられ、何か大いなる力によって登場したようなフィロストラトス。僕はこの人物への興味が尽きません。もしかしたらメロスの最後の迷いが生み出した幻影だったのではという気さえします。この単純明快な物語の唯一の謎、ぜひフィロストラトスについてもっと研究してみたいものです。

■福場への影響

大学時代、柔道部の稽古で路上を走らされたのはいつも夕暮れでした。夜盲症で鈍足の僕は日が暮れたら一大事、日没までには大学に帰り着かねばと勝手にメロス気分を楽しんでいました。

■好きな場面

幸福に満ちた祝宴の席でメロスは妹夫婦に言葉を掛けて退席する…城に戻って殺されるために。でもそんなことは告げず、花婿に「メロスの弟になったことを誇ってくれ」と笑って妹を託す。
→今回読み返した時、メロスの妹への想いにホロリときました。とんでもないけど、かっこいいお兄さんですよね。

■好きなセリフ

「信じられているから走るのだ。間に合う間に合わぬは問題でないのだ」
メロス

令和2年8月1日  福場将太 (研究協力 瀬山夏彦)