THE HISTORY OF MICRO WORLD

本サイトの名前にもなっている『MICRO WORLD』。実はこの言葉との出会いは古く、中学時代にまでさかのぼる。今回はそんな思い出を書いてみよう。

1.マイクロワールド研究会

僕が入学した広島大学附属中学校・通称アカシアでは、毎年春に新入生を対象としたクラブ発表会が行なわれていた。講堂の壇上で各クラブが自分たちの部活をアピールするのだが、その中でも一際地味で目立たなかったのがマイクロワールド研究会だった。他の部活が、サッカーボールでリフティングをしたり、楽器を演奏をしたり、小芝居をしたりと色々趣向を凝らしている中、地味な男子生徒が数名出てきてボソボソ何か言って退場するだけという、あまりにもやる気がない発表。しかしそれが逆に印象に残り、僕は友人数名と後日その謎の部活を訪ねることとなった。

マイクロワールド研究会…名称だけでは何をやる部活なのかさっぱりわからない。実はこの『MICRO WORLD』という言葉はアメリカの数学者であるシーモア・パパート教授が提唱したもので、「子供たちが自由に創作活動を行なえる世界」といった意味合いだったと思う。そしてパパート教授らが開発したLOGOと呼ばれる言語を用いたプログラミングソフト『ロゴライター2』を使ってゲームやグラフィック・音楽を作るのがこの部活の主な活動であった。僕らが入学する数年前、顧問の先生と有志の生徒が放課後に集まって、当時まだ珍しい物であったノートパソコンを触っていたのがこの部活の始まりらしい。

僕が入部した時点でもまだ知る人ぞ知る弱小同好会であり、放課後の空き教室で細々と活動していた。当時のノートパソコンは確かPC68シリーズといわれる液晶の白黒ディスプレイで、見えづらい上に動作も遅いポンコツであったが、それでも初めて触れる魔法のアイテムは少年心にこの上ないわくわく感をもたらし、夢中になってロゴライター2を憶えていた。

はたしてこのコラムを読んでいる人のどれだけがLOGO言語をご存じだろうか。BASICやC言語なら聞いたことあるぞという人も、ロゴライター2を知っている人はやはり稀有だろう。非常に独特なソフトで、画面上には一匹の亀が表示されており、ゲームもグラフィックもこの亀を操作して作るという謎のシステム。しかも日本語でもプログラミングできるという特性を持っており、「まえへ 30」などと撃ちこめば画面上の亀が前に進んだり、「いろは 15」などと撃ちこめば亀の色が変わったりする。プログラミングの基礎を学ぶ上ではちょうどよい難易度ともいえるが、ここからBASICやC言語に応用が利くかというとそうでもない。部活がそうであるように、このソフトも知る人ぞ知る存在なのだ。

2.マイクロワールド研究班

僕らが入部して数か月が経過した頃、数名いた先輩たちは部活に姿を見せなくなった。そんなわけで1年生にして幹部学年となった僕らは、ますますこの部活にのめり込んでいくこととなる。『M大王』の愛称で親しまれた顧問の先生はそんな僕らをあたたかく指導してくださり、文化祭では毎年作ったゲームなどを発表した。ロゴライター2でできることは限られていたが、その限られた機能をどう使っていかに面白いゲームを作るか…それが楽しかった。「設備よりもアイデアで勝負」という現在の僕の人生観はここで培われている。

例えばこんなゲーム。画面上を動き回るリスを手の形のアイコンで捉えるという『手とリス』。潰れそうな街を立て直すために市長が自らアルバイトの新聞配達をする『死ぬシティ』、これはただボタンを連打してその回数で新聞を投げる飛距離が決まりちょうどよく家に当てるというものだった。二人の生年月日や趣味などを入力して占う『ドキドキ相性占い』も、結果はただの乱数で入力する内容は一切関係なかった。それでも「現在70%計算中」ともっともらしい数字を表示させていた。恋愛シミュレーションゲームのパロディとして作った『附属生』は、恥ずかしくて女性キャラクターを登場させることができず、校長先生や男友達との触れ合いを描いた健全な作品となった。他にも『かめいたちの夜』、『ファイナルファンタジャー』、『ママレード・ボケナス』、『未来少年コヒシヨ』などなど、わけのわからん作品がたくさんあった。あまりにも愚かである。

ちなみにロゴライター2には一つ驚くべき機能が搭載されている。それは、レゴブロックとの接続。LOGOとレゴがどう提携していたのかは知らないが、レゴブロックで作った車に専用のモーターを乗せると、パソコンから命令を送ることで動かすことができたのだ。これもラジコンやプラモが大好きな少年心をくすぐったのは言うまでもない。当時作った車に『HIKINIGE1号』などととんでもなく不謹慎な名前を付けていたのも、恐れ知らずの中学生だからこそである。

そんなこんなで楽しい日々が過ぎていった。2年生の中頃だったか、同級生からの入部者もちらほら増え、同好会から正式な部活として格上げされ『マイクロワールド研究班』となった。
しかし一方で、あまりに内輪で楽しみ過ぎて新入生が全く入らないという問題も起こっていた。2年生の時のクラブ発表会では、部員の一人が壇上に出て「あーマイクロは最高!」と叫ぶだけという謎の発表で誰も来ず。3年生のクラブ発表会では、全員で壇上に出て嘉門達夫氏の『マーフィーの法則』という曲で踊りながらアカシアのあるあるネタを歌い上げた。会場は笑ってくれたが、結局何の部活化わからず誰も来ず。
このまま僕らが卒業してしまえば、マイクロワールド研究班は消滅してしまう事態となった。

3.マイクロワールド・セカンド班

中学卒業を目前にして、世間のIT化の波に押されアカシアにも『情報館』という新しい建物ができた。1階にはWindows、2階にはMachintoshのパソコンがずらりと並び、まさに21世紀の情報化社会へ向けての最新鋭設備といった雰囲気であった。しかも校内で唯一パソコンを扱っているということで、マイクロワールド研究班が誰よりも早くその設備を使わせてもらえることとなった。
これまでのMS-DOS画面で操作するのとは違い、マウスを用いてフォルダを開いたりファイルを移動させたりする、今では当たり前のあのシステムはここから始まった。デジカメで撮影した写真をパソコンに取り込んで編集する、メールを送り合う、チャットを用いてみんなと会話する…、今でこそスマートフォンが一台あれば事足りる話だが、当時の僕らにはあまりに刺激的で、それこそドラえもんの未来世界に来たような気がしていた。

これにより他の学校との交流も盛んとなった。まだインターネットではなくパソコン通信と呼ばれていたが、『めでぃあきっず』というサイトを介してそこに加盟した全国の小・中・高校とお互いに写真を送り合ったり、地元を紹介し合ったりした。これも今ならSNSでいくらでもできてしまうことであるが、当時は夢を見ているような感覚であった。『めでぃあきっず』の参加者がバリ島に集まり合宿するという、グローバルな企画まで行なわれた。
そんな活動が評価されたのか、マイクロワールド研究班はいくつかの地元誌やテレビの取材を受けてにわかな注目を浴びた。そして後輩たち数名が入部してくれることとなり、僕らは安心して高校へ行けることとなったのである。

まあアカシアは中高一貫なので、引き続き同じ敷地内にいるわけだが。僕らは活動を続けるため、『マイクロワールド・セカンド班』を高校でも立ち上げ、引き続き情報館に出入りした。ちなみに名前の由来は当時流行っていた『Xファイル・セカンド』。相変わらず愚かなセンスである。

4.マイクロワールド・ドリーム班

情報館の設備が使えるようになり、できることは格段に拡がった。ゲームもグラフィックも音楽も、ロゴライター2の時代とは比べ物にならないクオリティで作れるようになった。
しかしである。設備が充実して楽しかったのは最初だけ、徐々に部活で味わえたわくわく感は遠のいていった。その一つの原因は、技術に僕らが追い付いていなかったこと。僕らがパソコンを使いこなすのではなく、パソコンに僕らが使われている状態となった。やりたいことが簡単に叶ってしまうため、昔のように創意工夫してアイデアをひねり出す必要もなくなった。そのためいつからか退屈が強まり、ずっとパソコンゲームをしているだけの者、暇つぶしにチャットをしているだけの者、アダルトサイトに侵入して怒られる者まで出てきた。
またわくわく感が減ったもう一つの理由は、みんなそれ以外の楽しみを見つけていったことだ。中学に入って飛び込んだ時は、マイクロワールドが生活の大部分を占めていた。部活の枠に留まらず、趣味も人間関係も全てがそこから派生していた。
しかし高校に入り、みんな別の世界を知っていく。高校から入学してきた新しい友人との交流、恋愛、文化祭や体育祭の実行委員、アルバイトなどなど、マイクロワールドでなくても楽しいことは他にもたくさん見つかった。僕自身も音楽にのめり込んだため、バンドの方が楽しくて徐々に情報館から足が遠のいていった。

高校3年生になった頃、こんなていたらくではダメだと思い立ち、最後にもう一度あの頃の夢を取り戻せという願いを込めて、『マイクロワールド・ドリーム班』に名称を変更した。
だが名前を変えただけで生まれ変われるものではない。もう一度あの頃に戻るなんて無理な話。時間が流れれば状況も気持ちも変化する。まさに諸行無常、現状維持とはとてつもなく奇跡的なことなんだと学んだ。
それでも最後の文化祭は仲間に声をかけ、みんな別の世界の活動と並行しながらではあったが、部としての催しを行なった。プリクラブームに便乗してデジカメで撮影した写真をその場でシールにする『フゾクラ』、音声から嘘を識別する嘘発券機ソフト『トラスター』の実演、初心者向けパソコン操作体験など、昔のオリジナルゲームを並べる内輪向けの盛り上がりではなく、ちゃんと来場者に向けての開かれた内容だった。なんだかもうマイクロワールド…小さな世界ではなくなってしまった気もしたが、これはきっと必要な変化、僕らもその世界を巣立つ時が来ていたのだ。奇しくも催しの会場が中学の入部当時に使用していた教室だったのも、なんだか考え深かった。

その後は嫌でも受験勉強の日々がやってきて潔く引退。久しぶりに集まったのは卒業アルバム用の写真を撮影する時だった。僕のように初期からずっと在籍しているメンバーもいれば、途中から加わったメンバー、数年ぶりに撮影会だけひょっこり現れたメンバーもいれば、もうそこにはいないメンバーもいた。顧問の先生も最初にこの部活を立ち上げたM大王は転勤しており、後を引き継いだ先生方が連なってくれた。

5.マイクロワールド・フォーエバー班

そして卒業。今でもこの部活が存在しているのかはわからない。あえて学校でパソコンに触らなくても、スマートフォンがあればそれ以上のことが個人でできる時代。ブラインドタッチができたって自慢にならない時代。もうITは魔法のアイテムではなくなり当たり前の日常になってしまった。
それでも『マイクロワールド研究班』はけしてパソコン班と同義ではない。子供たちが自由に創作活動を行なえる世界…部活でなくても、その世界はいつまでも心の中に持っていてほしいと思う。
もし今またあの部活をやるとしたら、差し詰め『マイクロワールド・フォーエバー班』といったところだろうか。やっぱり愚かである。

こうして書いてみると、とても懐かしく、そしてちょっぴりせつない気持ちになった。そういえば最初のデジカメは大きな双眼鏡くらいのサイズで、そのくせ十枚も撮影できなかった。昔のパソコンはしょっちゅう固まり、その度に保存していないデータが消えるのに涙を呑んで電源を切るしかなかった。
不便だった。頼りなかった。機能が限られていた。でもだからこそ工夫した、アイデアを出した、協力した、それが楽しかった。僕が未だに変化というものが苦手で、最新鋭の技術と聞くとつい敬遠してしまうのも、この経験があるからなのだろう。

それに、やっぱりみんながいてこそ楽しかったんだと思う。今回の新型コロナウイルスによる外出自粛でもそれを痛感した。どれだけ便利な技術が手元にあっても、個人で生活できる方法があっても、やはり人間は直接触れ合わなければ生きていけないのだと。ITだけでは満たされないのだと。

6.研究結果

未だに創作活動が好きなのもやっぱりあの部活のおかげ。中学の頃、作ったゲームには必ず最初にこう表示させていた。
『MICRO WORLD PRESENTS』。

令和2年5月2日  福場将太