心の名作#6 天は赤い河のほとり

秋の夜長に読み始めたらもうページをめくる指が止まらない、そんな心の名作を研究するシリーズの六回目です。

研究作品

少女コミック?歴史ロマン?今回はもはやそんな言葉では収まり切らない魅力の塊のような作品、『天は赤い河のほとり』を研究します。
アナトリアの満天の星よ、私を研究結果へ導いて!

ストーリー

中学3年生の少女・鈴木夕梨は、ある日突然何者かの手に掴まれ水溜まりに引きずり込まれてしまう。どうにか振り払って水面に出ると、目の前には赤い土に赤い城壁が並ぶ街…そう、そこは紀元前14世紀のヒッタイト帝国であった。
時の皇帝シュッピルリウマ1世の皇妃ナキアは実子である第6皇子を帝位につけるために他の皇子を呪い殺そうと画策しており、夕梨はそのための生贄として召喚されたのだった。危うく殺されそうになった彼女を救った一人の青年、彼こそがやがて帝位を継ぐことを周囲から嘱望される第3皇子カイルであった。
かくして夕梨はカイルのそばで日本へ還るチャンスを待つことになるのだが、帝国を揺るがす数々の動乱の中で彼女はやがて戦いの女神ユーリ・イシュタルとして民から崇められていく。そしてカイルも彼女こそがずっと探していた皇妃の資質を持つ女性であり、同時に最愛の存在になっていることに気付いていく。
ナキアの放つ数々の謀略を共にくぐり抜けながら、結ばれぬ運命と知りつつも惹かれ合う二人。ついに始まったエジプトとの戦争の中、日本へ還る最後のチャンスが訪れる。

福場的研究

1.部隊があの国

高校時代になんとなく、本当になんとなく本屋で第1巻の単行本を手に取ったのがこの作品との出会いでした。どうして心のアンテナに引っ掛かったかというと、舞台があのヒッタイトだったから。
世界で初めて鉄器を用い、一時は大国エジプトとオリエントを二分するほど強大な領土と力を誇っていたにも関わらず、ある時突然歴史から姿を消した謎の帝国ヒッタイト。世界史の授業で割かれる時間もけして多くはない国ですが、その存在を知ってから何故だか僕は強い魅力を感じていました。

そんな場所へ現代日本の中学生が紛れ込むなんてとっても素敵な設定。それだけで迷わず購入を決意。やっぱり僕は「現実の世界に一つだけ非現実的なものを置く」というのに弱いようです。ドキドキしながら読んでみると、それはもう期待以上の面白さですぐに虜になり、新刊の発売をいつも楽しみにしていました。

2.おいしいブレンド

そして本作は史実とフィクションのブレンドが絶妙。もちろん記録も少ない紀元前の物語なのである程度は大胆に自由な展開を描きつつ、しかし要所要所では遺跡などから判明している史実をしっかり押さえてあるのです。
最初は全てフィクションなんだろうと思っていた僕ですが、図書室で歴史書を読んで驚きました。主要登場人物の婚姻や生き死に、国の滅亡や同盟についてはかなり史実をたどっているのです。
特に衝撃だったのがザナンザ皇子がエジプトへ婿入りする道中で起こる事件。歴史書にその記述が出てきた時には、まさかこの漫画は全てノンフィクションなのかと逆に思ったほどです。ザナンザ皇子を物語に登場させた時点からその史実へ巧みに導いていた作者の知恵と計算には脱帽です。
ちなみにエジプト展でお馴染みのネフェルティティの胸像の話も出てきます。どうして片目だけの像になったのか、その伏線がまさかあんなに初期から張られていたなんて一体どれくらいの読者が気付いていたのでしょう。

もちろん大昔のことなので何があったのか詳細は誰にもわかりませんが、本作はもしかしたら本当にこんなこともあったんじゃないかと思わされてしまうような、心地良い説得力を持っているのです。
世界史が苦手な僕ですが、この作品のおかげでその時代のオリエントに関する本だけは何冊か読めました。今でもテレビで、まあヒッタイトを特集した番組は滅多にありませんが、エジプト特番などの片隅にヒッタイトが出てくるとついつい見てしまいます。

3.極上の人間ドラマ

そして舞台設定に負けないくらい人間ドラマが面白い。描かれるのは電気はおろか火薬も車もない時代の戦争。一見スケールが小さいように感じられるかもしれませんが全くそんなことはありません。
舞い上がる熱い砂、民衆の熱気、巧みな知略のかけ引きは手に汗握ります。宮廷内でのナキアとの争いも愛と悪意と権力の交錯が見事で、国益や野望のために犠牲になる命が悲しく、そして美しく描写されます。もちろん少女コミックならではの恋愛模様も盛り沢山です。

そのロマンスに感動し、そのスリルに興奮し、そのサスペンスに恐怖し、その悲劇に涙する。まったく、なんて魅力だらけの物語なのでしょう。

4.ユーリの魅力

印象的なキャラクターが多く登場する本作ですが、やはり主人公・夕梨ことユーリの魅力は絶大です。本作でユーリは男からも女からも愛され慕われる存在として描かれていますが、それはけして少女コミックの主人公だからというご都合主義で成立しているわけではありません。ここにも読者を納得させるだけの説得力がちゃんとあるのです。
想像してみてください。三千年以上昔の世界では彼女の姿はどのように見えたのでしょうか。黒い髪に黒い瞳、象牙色の肌の小柄な少女。現代日本では珍しくもありませんが古代人の目には本当に別世界からやってきた女神のように映ったのでしょう。
しかも現代人にとっては当たり前の感性や倫理も彼らにとってはとても新鮮。予防接種を受けているから伝染病にかからないなんて事情も古代においては奇跡に思えたに違いありません。そんな偶然の要素も彼女がヒッタイトで神格化された一因であり、タイムスリップの設定がうまく活かされています。

ただ現代人なら誰でもヒッタイトへ行けばユーリのようになれたかというとそうではありません。彼女が帝国にとって必要な存在となっていったのは彼女自身の資質があってこそです。
勇気と行動力、何が今重要化を見極める判断力、人を許せる寛容力…カイルもそしてあのラムセス1世もユーリに王の横に並んで立てる器を見い出します。そして彼女の、身分や人種に関係なく一人の人間として人を惹きつける魅力を、僕たち読者も十分に納得させられることになるのです。
もし自分が知り合いの一人もいない異国へ突然送り込まれたら、きっと彼女のように勇敢に振る舞ったり、仲間を増やして居場所を作ったりはとてもできないだろうなあと思います。

5.カイルの魅力

もう一人の主人公、カイル・ムルシリ。彼はムルシリ2世として実在するヒッタイトの皇帝です。本作では、容姿端麗で数々の浮き名を流したプレイボーイ、しかしユーリと出会ってからは最愛の一人を愛しぬく誠実な男、戦争嫌いだが戦略の天才、運動神経も抜群の軍人、ヒッタイトに帝国史上最大の繁栄をもたらした名君などなど、これでもかというくらい完全無欠なかっこよさで描かれています。
しかし僕たち読者が嫌味やひがみを感じず素直に彼を認めて応援できるのは何故なのでしょう。

その理由の一つは、彼がとてつもない重圧を抱えながらけして逃げようとしないこと、あまりにも自分に厳しい男ということです。
幼い頃から皇統を継ぐことを自覚し、自分の幸せや感情よりも国のため、民のためという視点で行動する。政略結婚しかないことも受け入れておりだからこそ多くの女性と関係を持ってもけして執着を示さない。
そう、その責任感と自制心がカイルの魅力であり、だからこそ仲間たちは忠誠を誓い、読者も立派だとうならされるのです。

作中で何度か感情に流されそうになる彼ですが、その度に立ち止まり必ず理性を優先させます。不可抗力に身を任せればユーリを失わずにすんだ場面でも、彼は一瞬でもそんなことを考えた自分を卑怯者と罵倒し、感情を押し殺して彼女を日本へ返す約束を守ろうとするのです。
ここまでかっこいいともう文句なし。感情的な姿が魅力のヒーローはたくさんいますが、カイルは理性的な姿が魅力のヒーローなのです。

あともう一つ、作者が巧みだなあと思うのは彼の言葉遣い。彼は一人称は「私」なのにユーリや仲間への二人称は「お前」なのです。
私とあなた、僕と君、俺とお前ではなく、私とお前という組み合わせは画期的。一方で丁寧で一方で乱暴、気品とワイルドさが共存する彼の色っぽさを見事に表現しています。現代ドラマではこの言葉遣いは不自然になってしまうので、まさにこれも舞台設定を活かしているといえるでしょう。

6.時代と心

僕の職業柄どうしても気になるのは、今と昔で人の心は同じなのだろうかということ。知識や常識は時代によって異なっていても、心の構造と言うか機能というか、そういった本質はどんな時代でも変わらないのでしょうか。
本作はもちろんエンターテイメントなので、価値観や感性は違っても心自体に古代人と現代人の差は感じません。古代人の愛しさと現代人の愛しさは同じなのかな?悔しかったり楽しかったり、嬉しかったり悲しかったり、それは同じなのかな?
遺跡からもし当時の心模様までわかるんだったらとても素敵ですよね。

カイルに「私の国では女を愛しいと思ったら抱く。心を伝えるのにお前の国ではどうするんだ?」と尋ねられ、ユーリがハートマークを教えるシーンはとても興味深かったです。

好きなシーン

ユーリはやがて大きな人生の分かれ道に立たされる。それこそが日本へ還る最後のチャンス…カイルと一緒に生きるためにはここに残るしかない。しかしそれはさよならも告げずに離れた家族・友達・学校といったもの全てを永遠に失うこと。決断は今この瞬間に一度しかできない。どうする?どっちを選べばいい?

→死んだ人間が蘇ったり、ユーリが都合よく日本とヒッタイトを往復できたりといった甘い設定が一切ないのも本作の特徴。どちらかを選べばどちらかを確実に失う…そんな厳しい選択にユーリが出した答え。この時のセリフが本作最大の名場面です。ぜひみなさんご自身の目でお確かめください。

福場への影響

ユーリほど大きなものでなくとも、誰の人生にも時々分かれ道があります。まさか自分にこんな生き方の選択肢があったなんて、と戸惑いながらもわくわくする時があります。
僕も故郷を離れて北海道に暮らしているわけですが、戻りたくないなんて思いながらきっと心のどこかにはいざとなれば戻れるという甘えがあるのも事実。
割り切りの悪い僕にとってユーリの最大の魅力は自分の生き方を力強く選べるその決断力。僕にもいつかその時がきたら、ユーリのように胸を張って決断をしたいなあと憧れております。

そんなわけで、いつか視力が戻ったらまた読みたい作品、『天は赤い河のほとり』の研究でした。その時はぜひ遺跡巡りにも行きたいです。

好きなセリフ

「お前が本当に私が手を引かなければ歩けない女なら、私はもっと嬉しかったんだがな」
カイル・ムルシリ

令和元年11月1日  福場将太