AREA51、再始動?

何を隠そうAREA51とは僕が人生で初めて組んだオリジナルバンドである。名前の由来はもちろんアメリカにあるという某秘密基地の名称から。バンドといってもメンバーはギター&ボーカル担当の僕とキーボード&コーラス担当の憲司くんの二人しかいない。この度ちょっと嬉しいことがあったので不健全ながらあの頃を追憶してみる。

AREA51で活動していた頃の写真

1.結成前

憲司くんと出会ったのは小学4年生の頃、学校は違っていたが同じ学習塾に通ったことで知り合った。距離が縮まったのは中学時代、共にアカシアに入学してしかもマイクロワールド研究会という謎の部活に揃って入部したことで、学校でも登下校のJRでも一緒に過ごした。そういえば車内で不良グループに「お前ら何の部活してんだ?」とからまれた時も、憲司くんが素直に「マイクロワールド研究会です」とわかるはずもない名称を答えたら相手が笑って難を逃れたりもした。
不思議なことにクラスは一度も一緒にならなかったが、お互いの家にも出入りして、何度か殴り合いの喧嘩もして、一番の友達だったのは間違いない。

そんな僕らは中学2年の時に音楽に興味を持った。仲間内で流行っていたラジオ『爆裂スーパーファンタジー』に影響され、そこから嘉門達夫・鈴木彩子・イングリーズら出演アーティストのCDを集め始めた。さらに彼らをプロデュースしていたスーパーミュージシャン・新田一郎がかつてやっていたバンド・スペクトラムにも熱中した。時を同じくして世間でもMr.Children、GLAY、スピッツ、JUDY AND MARY、ウルフルズ、シャ乱Q、ZARDといった若いバンドたちが続々と音楽シーンを騒がせ始めた。

そんなわけで僕はギター、憲司くんはキーボードを購入し独学で練習を開始。音楽室は正規の管弦楽班や合唱班しか使えないので、僕らは廊下の片隅にあった机に集いそこを『家庭科室前スタジオ』と名付けて練習していた。今から思えば騒音迷惑はなはだしい。
そして中学3年の時に悪友・名越くんのバックバンドとして初めて文化祭のステージに立った。まあこの時は半分以上カラオケを流して踊っていただけなのでまともな演奏はしていないが、この経験で音楽魂にいよいよ火が着いたのである。

2.活動期

高校生になり、音楽への入れ込みはさらに加速。僕はサザンオールスターズ、憲司くんはTKサウンドに心酔し曲作りの真似事も開始。通学中の車内でも音楽雑誌ばかり読み、休日は楽器屋を巡り、テレビのMUSIC STATIONやカウントダウンTVは欠かさずチェックし、音楽漫画『DESPERADO』も愛読した。
そして訪れた1年生の文化祭、ついに二人で出演した。その際のバンド名こそがAREA51、演奏したのはなんとか二人で形にしたオリジナル曲「遠い場所で」と恐れ多くもサザンオールスターズの「いとしのエリー」であった。
歌も演奏もとても音楽と呼べる代物ではなかっただろうが、最大限の全力を尽くし、またこれまでになかった人生の楽しみを得たことは間違いなく、以降卒業まで毎年文化祭に出演するのが恒例となった。

不思議なもので続けていれば仲間が集まってくる。気付けば『家庭科室前スタジオ』には多い時で五人以上の音楽馬鹿が演奏している状態となった。そこからギタリストのジョニー田中とドラマーのホコさんが加入し、バンド名もRecipeに改名して2年生の文化祭に出演。この時はオリジナルの「僕達の存在価値」と鈴木彩子の「あの素晴らしい愛をもう一度」を演奏した。後者は女性ボーカルの曲なのでキーをずらしたいと頼んだが憲司くんがそれでは曲の雰囲気が変わってしまうと却下、原曲キーのA♭のままでやり、しかもそれに合わせてハーモニカまで買わされた。その特殊なキーのハーモニカは以降一度も使うことなく今も部屋の引き出しに眠っている。

3年生の文化祭では応援団長となったホコさんが脱退して三人組ユニット・磯神(いそじん)として出演した。この命名は憲司くんだが、うがい薬とは関係ないらしい。ついに全曲オリジナル、しかもドラムとベースは憲司くんがコンピュータープログラミングで流す演奏。他の出演者が有名バンドのコピーをやっている中、それは異質で意味不明だったに違いない。
そもそも一般的にはコピーバンドで腕を磨いてからオリジナルに挑戦すべきところを、その過程をすっ飛ばしていきなりやっているわけだから無謀にもほどがある。それで満足いくライブができるはずもないのだが、まあ若気の至りとはそういうもの。その無鉄砲さが今となってはうらやましくもある。

3.解散後

かくしてその大部分を音楽に捧げた高校時代が終わる。僕と憲司くんはそれぞれ東京の大学へ進学した。最初の頃は東京でも一緒にスタジオに入って練習したりもしたが徐々にお互いの生活が忙しくなり、音楽もそれぞれの新しい仲間と続ける状態となった。直接会うことも、連絡を取り合うことも徐々に減って言った。お互い大学も卒業しそれぞれの人生が落ち着くまで十年を要した。

三十代も半ばとなった頃、久しぶりに憲司くんから連絡があった。新たなサイトを立ち上げるので協力してほしいという。オリジナルの音源を紹介するコーナーを作るとのことで僕はいくつか提供した。彼の音楽好きは変わっていなかったが、ただ昔のように自分で演奏したり作ったりということからは遠のいているようだった。
残念ながらそのサイトは数年で終了となったが、サイトを機にまた憲次くんとの交流が復活。不思議なものですぐに中学時代のようなノリに戻ることができた。当サイト『MICRO WORLD PRESENTS』をやろうと思った一つのきっかけも、憲司くんとやったあのサイトの経験があったからなのだ。

4.予告編

近年は頻繁に電話で話している。広島へ帰省した際にも必ず会っている。中学時代に二人で通ったカレー屋へ行ってみたり、家へ遊びに来てもらったり。僕の目が悪くなったことも承知してくれ、お互いあの頃と同じく対等に話せるのは嬉しい。口にするのは相変わらず叶いっこないような無謀な夢ばかりだがそれが楽しい。今年の夏も台風が接近するまでのわずかな時間を見つけて一緒にカラオケに行き、二十年以上ぶりに「いとしのエリー」を歌った。

そして数日前、彼から嬉しいメールが。最近また音楽がやりたくなってキーボードを引っ張りだしてきて弾いているという。もしかしたら彼も色々な苦難があって、僕自身がそうであるように道に迷ってふとあの頃の情熱が懐かしくなったのかもしれない。
まだ何もわからない。いつとかどこでとか確実な話は一つもない。それでももしかしたらまた二人でAREA51をやれるかもしれない可能性がこれで生まれたわけだ。それだけで嬉しくなって、また生きるのが楽しみになるのである。

5.研究結果

もうすぐ出会って三十年。いつか一緒に名曲を作ろう。そんな叶いっこない夢を描いて生きていこう。そしてその時はあのA♭のハーモニカを使わせてくれ。

令和元年10月14日  福場将太