旅立つ理由

「どうして北海道で働いてるんですか?」、自己紹介の挨拶をするとよくそう尋ねられる。自分では特に疑問を感じることなくこの北の大地にいるのだが、複数の人から同じ質問を受けるからにはやはり少なからず不思議な現状なのだろう。
思えば北海道に来たのは十数年前の10月、ちょうど9月の今頃は旅立ちの準備をしていた頃だ。どうして慣れ親しんだ東京を離れ、しかも故郷の広島とは反対方向の北へ向かったのか…改めて今回はそれを研究テーマにしてみたい。

1.惰性の冬

僕の網膜色素変性症が本格的に進行してきたのは医学部も残すところあと二年といった頃だった。一番勉強しなくてはいけない時期にテキストやノートの文字が見えづらくなってきてしまったわけだが、勉強への集中を一番妨害したのは視力の低下そのものよりそれによって生じた心の葛藤だった。ただでさえ決断や覚悟に時間がかかる性分で、医学部にいながらにして医者になるかどうかを迷っていたような自分にとっては、視力の低下というサプライズはさらに迷いを増幅させるものであった。
どうせ国家試験に受かっても目が見えなくなったら意味がない、これは神様が医者になるなと言ってるんだ、むしろこの業界から脱出する恰好の口実になるじゃないか…そんな浅はかで卑怯な考えもたくさん浮かんだりした。しかし季節が学生生活最後の冬へ突入すると同級生たちはどんどん受験ムードを高めてくる。とても医者になるべきかどうかについてディベート大会をしましょうなんて言える雰囲気ではない。

そんなわけで泥舟だろうがこの荒波に乗るしかなく、沈没寸前ではあったものの僕はかろうじて卒業という湊にたどり着いた。しかしさすがに惰性の勢いで突破できるほど国家試験は甘くはなく、めでたく浪人が決定した。
実はこの浪人時代が僕の人生において最も有意義な時間となったのだが、まあ今回はそこがテーマではないので考察は省く。とにかく葛藤して逡巡して紆余曲折の果てになんとか網膜色素変性症との追いかけっこに勝利して医師免許を手にできたわけである。

2.度胸の春

さあここからだ、これからどうしよう。さすがにこれ以上両親に生活費を援助してもらい続けるわけにはいかない。そして浪人時代に色々挑戦して思い知ったように、今の自分には裸一貫で生活費を捻出できる術がない。不本意でも惨めでも医師免許を使うしか生きる道はなかった。
そのため医師の就職や転職を斡旋しているサイトをインターネットで探し自分の現状を正直に書いてメールを送ってみた。すると一つの会社から反応がありぜひオフィスでゆっくり相談しましょうともちかけられた。

未知の会社へ足を運ぶというのは当然不安もあった。しかしこれも浪人時代にいくつか社会経験したおかげである程度の度胸は身に付いていた。まあ招かれた場所が雑居ビルだったら逃げ出そうと決めて一応鞄にボイスレコーダーも忍ばせたりしながら僕は約束の地へ向かった。
大きくて重たいドアが開いて通されたのは雑居ビルどころか立派過ぎる応接室。幸い悪徳企業ではなかったようで、進行性の視覚障害のことも踏まえて就職先を探してもらえることとなった。
候補が見つかったら連絡しますと言われて僕はあれよあれよという間に頭を下げる。本当にこれでよかったのか、まだよくわからない。そもそも医師の就職斡旋業なんて仕事が存在することすらそれまで知らなかったのだから。綺麗なオフィスの窓辺には春の光が頼りなくこぼれていた。

3.決断の夏

数週間経った頃だったか、二つの候補が告げられた。物は試し、ダメで元々、とにもかくにもひとまず見学に行くこととする。
一つ目は横浜のオシャレなオフィスビルの中にあるビジネスマンを主なクライアントとしたメンタルクリニック。待合室のインテリアも、スタッフの服装も、窓から臨む夜景も、流れる時間さえおおよそ病院っぽさを感じさせないエレガントな雰囲気だった。
そして二つ目が北海道の人里離れた山あいにある古びた精神病院。晴天の夏空の下、周囲を緑に囲まれた小高い丘に建つその白い病院の姿は今も鮮明に記憶に焼き付いている。中も案内してもらったが、もうこれでもかというほど病院っぽさを感じた。

東京への帰路、こんな機会でもなければ乗ることもないだろうと交通手段は北斗星を選択した。寝台列車に揺られながら僕は考えていた。さて、この就職の話、どうしたものか。
長い夜が過ぎていく。少しずつ闇が明け始め景色が白やんでくる。そして列車も思考も必ずどこかへ到着する。

8月に入った頃、僕はあの丘の上の精神病院への就職を決めた。北海道には親戚はおろか知り合いもいない。眼科の主治医は雪に乱反射する太陽光は網膜色素変性症を進行させるリスクが高いと忠告した。友人の何人かも北海道の冬の過酷さをくり返し警告した。それでも僕は旅立つことにしたのだ。

何故か?北海道を選んだ最大の理由、それは自分を必要としてくれる職場がそこにあったからに他ならない。余裕のある横浜のクリニックと異なり、その病院は医師不足が切迫していた。だからこんな臨床経験もほとんどなくいずれ失明するかもしれない医者でもぜひにと歓迎してくれたのだ。
それに僕はやっぱり天の邪鬼で負けず嫌い。どうせ同級生たちと同じことができないのなら逆に同級生たちが経験できないことをしてやろう、この目のせいで人生が変わるのならいっそとことん変えてやろう、とそんな気持ちもあったと思う。

若気の至りだったかもしれない。賢明な判断ではなかったかもしれない。東京にいて恩師や学友にすがれば母校の大学病院に置いてもらえる道もあったかもしれない。でもそれでは勝てない、同級生にも運命にも。みんなの仲間でいたいからこそ、恩情ではなく自分の力で存在価値を掴まなくてはいけなかった。
それに…あの病院には体育館があった。見学の時におまけで案内してもらったその空間に足を踏み入れた時、心は確かにときめいていた。古いけど造りはしっかりしていて、患者さんがカラオケやクリスマス会を楽しめるちょっとしたステージも備えた体育館。ここならきっと音を鳴らせる。つらいことがあってもここでギターを弾いて歌うことができる。それならきっと北海道でやっていける…。
見知らぬ土地の見知らぬ病院の中に、僕は懐かしい未来を見つけたのだ。

4.別離の秋

こうして止まっていた人生が動き出す。まずはこれまでで一番盛大な荷造りの日々。不思議なもので別れが決まると色々なものが愛しく思えてくる。学生時代を過ごした街、部屋、大学、カレー屋、コンビニ、音楽スタジオ、新宿御苑、そして仲間たち。
今生の別れというわけでもないはずだが、柔道部の仲間、音楽部の仲間、そして東京にいるアカシアの仲間が送別会をしてくれた。その時にプレゼントされた熊よけの鈴は今もリビングのドアノブに揺れている。

一通りのさよならが終わったらいざ新天地へ。もちろん今度は飛行機で北上する。まずは新居にて盛大な荷ほどきの日々。そして始まる新生活。医療の仕事はもちろん、そこで出会う人たち、触れる価値観、経験する出来事は何もかもが目新しかった。網膜の視野はどんどん狭まったけど心の視野はどんどん拡がっていく気がした。
確かにここは都会の大学病院ではない。設備も足りないし当たり前なことが全く当たり前ではない。それでも間違いなくここに来なければ出会えなかった人たち、その暖かさの中で僕は生きていけた。

そして予定どおり、落ち込んだ時は体育館で演奏した。窓から広大な空を望みながら、果てしない大地に沈む夕日を浴びながら、今ここでしかできない音楽を奏でた。
ちなみに北海道に来て最初に作った曲がこのサイトの音楽室にも掲載している『HOPE SONG』である。日曜日に職場の空き部屋で歌を録音したのだが、隣の部屋にはしっかり休日出勤のスタッフがいて全て聞かれていた。きっととんでもない変人ドクターが東京から来たと思われたことだろう。

5.激動の季節

あれから十数年。波乱万丈というには大袈裟かもしれないが、それでも想像以上に激動で色々なことが起こった。あの丘の上の病院も取り壊され今は別の場所に建て直された新しい病院で働いている。
設備も充実し、医局員もたくさんいて今はもう医師不足に頭を悩ませることもない。あえて遠方から目の悪い医者を迎える必要もない職場環境だが、病院移転前からの生き証人として未だに雇ってもらえている。そして新築の体育館では相変わらずギターを弾かせてもらっている。

まさかこんなに長く北海道にいることになるなんて…と書くのが定番かもしれないが、そういった気持ちは全くない。旅立ちを決めた時からきっと十年後もそこにいるだろうと確信していた。決断と覚悟に時間がかかる分、一度やると決めたことはやめないというのが良くも悪くも自分の特性だと知っていたからだ。僕自身の気持ちとしては北海道に居続けていることに意外も違和感もない。
だが仕事は働かせてくれる職場があってこそできるもの、今もここにいられるのはやっぱり暖かい人たちのおかげなのだ。医師不足じゃなくても必要とし続けてもらえるよう、これからも自分らしく精進したい。いつか職場に恩返しができたらと思っている。

さて、愚かなコラムもそろそろ終わりにしようか。今回は旅立つ理由を研究した。たまにはこんなふうに振り返るのも面白いものだ。嘘は書いていないがもちろん都合良く割愛もしているし、特に心象描写に関しては多少…いや大いに大いにかっこつけて書いているのでそこは適度に差し引いてお読み頂けたら幸いである。
そう、勇ましく旅立ったなんてのは見せかけで、情けなく逃げ出したというのが真実かもしれないのだ。世に溢れている伝説なんてきっとそんなものだろう。

6.研究結果

決め手はやっぱり体育館、旅立つ理由はそれで十分。
「この目のせいで」と思っていたのが、いつしか「この目のおかげで」と思えている。

令和元年9月7日  福場将太