心のレコーディング

今月は音楽室に新しい楽曲を更新する。気付けばもう二十年以上も曲を作っては録音するという愚かなライフワークを続けてきたわけだが、今回はそんなレコーディング人生をその機材の歴史と共に振り返ってみたい。

1.高校時代まで

録音した自分の声を初めて聞いたのは小学生の頃。当時のラジカセは今のように複雑な機能はなく、ガチャンと録音ボタンと再生ボタンを同時に押すことで内臓マイクで周囲の音声をカセットテープに録ることができた。巻き戻して再生した時、自分の耳で聞いていた声とあまりにも違うので驚いたものだ。

中学生になるとギターを始めたことで曲作りの真似事を開始。買ってもらったCDラジカセに家に転がっていたマイクを挿して歌とギターをカセットテープに録っていた。マイクスタンドなんて上等な物はなかったので筆立てを代用、椅子に座ってギターを抱え勉強机に向かって歌うというスタイルだった。もちろん一発録音、演奏はおろかそもそもチューニングさえまともにできていなかった。

高校時代には曲作りの趣味が加速し多重録音を開始。僕のラジカセはカセットテープを二本セットできるダブルデッキだったのだが、一本のテープを再生しながらマイクで音を吹き込むともう一本のテープにその合成音声が録音できるという高度な機能が搭載されていた。まあ本来はカラオケを流しながら歌を録音するための機能なのだが、これを利用することで演奏を重ね録りすることが可能となったのだ。

つまり、まず単純に歌とギターを録音、そのテープを再生しながら今度はコーラスとタンバリンを録音してもう一本のテープに合成、次はその合成テープを再生しながらキーボードを録音してさらに別のテープに合成…といった具合だ。もちろん重ねれば重ねるほど音質は悪くなるわけで、マイクを通しての楽器録音なので雑音だらけでそれも倍増。相変わらず歌も演奏もメチャクチャ。当時のバンドメンバーはよくそんなデモテープを聞いてくれていたと思う。

それはやはりアカシア時代の相棒である憲司くんのおかげによる所が大きい。僕自身は機械オンチで極めてアナログな人間だが、不思議と仲良くなる相手はデジタルに強い人間が多い。僕が作った雑音同然のテープから情報を汲み取り、DTMをたしなんでいた憲司くんは演奏も音質もしっかりした真のデモテープを作ってくれていた。ちなみにDTMはデスクトップミュージック、生音ではなく通信カラオケの演奏のようないわゆる撃ちこみ音楽のこと。機会オンチの僕にはこれくらいの説明しかできない。

2.大学時代

音楽部に入ってますます曲作りが好きになった僕は、思い付いたらすぐ録音できるようにテープレコーダーを持ち歩くようになった。いわゆるテレコという物で、手のひらサイズでワンタッチでいつでもどこでも録音ができる。内臓マイクの音質もこれまでのラジカセより向上、モノラルではなくステレオでの録音も可能となった。

ただ多重録音に関してはこれまでの方法を続けていた僕だっがが、2年生の時に革命が起こる。音楽部の相棒である山田くんが使い古しのMTRを安く譲ってくれたのだ。MTRとはマルチトラックレコーダー、よくプロの歌手がレコーディングスタジオでインタビューを受ける際に後ろに写っている機械。もちろん僕が買ったのはそのミニチュア版だがそれでも16トラックまで録音することができた。

これにより歌、ギター、ベース、ピアノなどを別々に録音して後で音のバランスを調整するいわゆるマスタリングが可能となった。音にエフェクトをかけたり、イコライザーをいじったり、ノイズをカットしたりと山田くんに手ほどきしてもらって練習した。内臓のリズムマシンでドラムパートも作れるようになった。

しかもこのMTRは持ち運び可能サイズだったので、自分の部屋だけではなく、大学の部室、練習スタジオ、合宿先など色々な所で録音を楽しんだ。

おそらくこの頃が最も音楽への無防備な情熱に溢れていただろう。相変わらず歌や演奏の技術は今一つだが、曲を考える発想力は一番冴えていたと思う。一つお題を決めて山田くんとお互い曲を作ってくるなんて遊びもやっていた。僕がギター弾き語りのアナログ音楽を作ってくるのに対し、彼がトランスやユーロビートといったデジタル音楽を作ってくるのも面白かった。

ちなみに国家試験が終わったその夜も山田くんの部屋に集って二人で録音や編集をしていた。同級生たちは打ち上げの宴会でもしていただろうに、なんて根暗な音楽バカたちであろうか。

3.社会人になって

東京から離れることが決まった時、大切なそのMTRだけは自分の手で北海道まで運んだ。そして仕事が休みの日などは引き続き録音を続けた。山田くんが近くにいなくなり録音後の音の調整作業まで全部自分でやらなくてはいけなくなったが、教わった知識を総動員してなんとかやっていた。まあ山田くんに言わせれば僕はMTRの機能の半分も使えていないそうだが。

休日の職場の空き部屋に機材を運び込んで歌やギターを録音する姿は客観的には意味不明だっただろうが、僕にとっては元気を維持しながら働くために必要な活動であった。

またこの頃になるとテレコの代わりにボイスレコーダーを持ち歩くようになった。胸ポケットに入るくらい軽量化され、しかもデジタルで温室もよく頭出しも簡単、USBでパソコンにも繋げる…録音機器も進化したものだと実感した。

4.そして現在

残念ながら目が悪くなってからMTRでの音の調整がほとんどできなくなった。というのもそれらの機能はタッチパネル操作なのだ。銀行のATM同様に指の感触でボタンを判別することができない。ただ録音ボタンやボリュームスイッチだけはタッチパネルではないので記憶を頼りに操作することができた。かくして現在は手動で操れる機能だけを用いて録音作業を続けているわけである。

こうなると作れる曲にも制限が出る。リズムマシンが使えないのでドラムパートは作れない。また複数の楽器を録音すると音がぶつかり合うため本来は音域を分ける作業をしなくてはいけないのだがそれもできない。そんなわけで近年は必然的にほとんどがギター弾き語りのような音数の少ない楽曲となっている。

まあこれはこれでよいかなとも思う。もともとデジタルが苦手なアナログ人間なので、一番最初の中学生の頃のスタイルに戻った感じだ。デジタルが使えないのならアナログでそれと同じ効果を上げればよい。例えば声にエコーをかけたいならバスルームで録ればよい。ギターの音を硬くしたいなら弦の種類や弾き方を工夫すればよい。音の波形が見えないなら耳を頼りに音量をいじればよい。ツールが不便になったのならアイデアでカバーすればよいのだ。

さらに最近は基本に立ち返ってボイスレコーダーでの一発録音なんかにも挑戦している。同僚はみんな帰宅した後の夜の社員食堂が僕の録音スタジオ。そういえば高校時代も廊下の端っこの古い机に憲司くんと集まり、『家庭科室前スタジオ』なんて呼んでいたっけ。やっぱり僕にはこんなみみっちいスケールがお似合いらしい。

5.時代が流れても

ダブルデッキのCDラジカセ、テレコ、MTR、ボイスレコーダー。僕のレコーディング人生を助けてくれた機器たちは未だに部屋に並んでいる。機材が進化したように、日本における音楽の在り方も随分変わったようだ。

目が悪くても操作できるMTRがないか楽器屋さんに訊いてみたところ、今はもうMTRそのものが少ないのだという。音楽はパソコンの専門ソフトを使って作る時代らしい。さすがに音声ソフトには対応していないだろうから僕には扱えない代物だ。

そういえばCDショップの販売スペースも随分小さくなった。昔は欲しいCDを求めて何軒も巡ったものだが今はネットで検索すれば出てくる。そしてデータで購入できる。

少し物悲しい気もするが、まあ時代が進んだおかげでこうやって自分のホームページで楽曲を紹介できるわけでもある。昔の音源を聞くことは恥ずかしかったりもするが、それ以上に嬉しく、そして懐かしい。下手くそでもそれは確かに僕がそこに生きていた証であり、その頃の楽曲を聞けばその頃の心が蘇る。今が苦しかったとしてもかつての自分の歌、あの頃の仲間たちの音が励ましてくれる。

6.研究結果

録音とはレコーディング、レコードは音と心の記録。
ああ、やっぱり僕はこのライフワークがやめられそうにない。

令和元年6月8日  福場将太