前回のコラムでも書いたがアカシアとは僕の母校の愛称。その生徒たちに宿る魂を僕はアカシアソウルと呼んで居る。断わっておくがこれはさすがに公式な用語ではない。しかしアカシアソウルに溢れる者、アカシアソウルを感知できる者は同窓生に数多いことは確信している。
さあどこまでマニアックになるのか研究室、今回はアカシアソウルの研究だ。
1.自由な挑戦の魂
そもそもアカシアソウルとは何だろう。一言で表現すると「節操ある愚行」、「品位ある遊戯」、あるいは「見守られた主体性」といったところか。根底にあるのは自由と挑戦の精神であるが、けして自由奔放・無鉄砲というわけではない。けしてアカシアの生徒たちがモラトリアムを勘違いした無法者ということではないのだ。
例えばアカシアの学校祭にはかなりの自由と挑戦が生徒の主体性の範疇で許されている。ほとんどの部分を生徒が企画・立案し運営する。その最たるものが体育祭。一年前から準備され、夏休みのかなりの時間を費やして演武の練習や大道具の建設に励んだ。早朝から稽古したり、夜を徹して準備することもあった。
社会人になった今だから思う、リスク管理はどうなっていたのだろうと。「そんな夏休みまで潰させて、受験勉強はどうなるんだ」、「そんなプロの指導もなしに危険を伴う演武をさせたり、電気ドリルやノコギリを扱わせたりして、怪我したらどうするんだ」、「そんな朝早くや夜遅くに出歩かせて、事件にでも巻き込まれたらどうするんだ」…、当然のクレームが浮かぶ。事故や事件を予防するにはルールを作って制限するしかない。リスク管理は本来当たり前のことである。
しかし僕らはそんな制限や管理を受けていた記憶はない。自由にやらせてもらっていた。そしてそのおかげでたくさん大切なことを学べたし、一生物の思い出をもらえたと思っている。これはどういうことなのか?
2.信頼に応える魂
先生方は事故や事件が起これば自分たちが責任を問われることを承知で生徒の自由を最大限に許してくれていた。そして僕ら生徒も、無意識ではあったがそんな先生方の信頼を裏切らないように節操を持って自由と挑戦を楽しんでいた。そう、これこそがアカシアソウルなのだ。
教師になった友人に話を聞くとそれがいかに希少なことか思い知らされるという。自由を許せばどうしてもはみ出して事故や事件が起きてしまう。だからやむを得ず学校は管理的になりがちだ。でもそれでは本当の主体性は育たない、心に残る思い出も生まれ難い。
僕の仕事でもそうだ。リスク管理の名のもとについ精神科の病棟は患者さんのルールを厳しくしてしまいがちだ。もちろん事故を防ぐことは大切なのだけど、自由な挑戦なくして真の回復はない、命ばかり守って居ては心を死なせてしまうのだ。
アカシアの先生方はきっとさり気なく僕らを見守ってくれていた。一線を越えそうな時はそっと手を添え、逸脱した時は厳しさを持って叱ってくれた。挑戦する権利、失敗する権利を与えてくれ、転んだ時は立ち上がる術を示してくれた。
もちろんそれでも全てが完璧だったわけではない。事故や事件も少なからずあった。でもその時に僕らは誰も先生方を責めなかった。学校を恨まなかった。ちゃんと管理してくれないからこんなことになったんだなんて考えもしなかった。むしろ信頼を裏切ってしまった申し訳なさ、自分を責める気持ちの方が強かった。そう、アカシアの自由は自己責任の精神も宿しているのだ。
3.神が見守る魂
アカシアソウルは自由な挑戦をする魂、好きなことを追求する魂、仲間と楽しいことをするのをためらわない魂。でもそれは信じてくれる人たち、許してくれる人たちのおかげで燃やせる魂。大切な人たちを裏切らないために、無駄に人を傷つけないために、母校の名を汚さないために、節操と品位と自己責任を宿した魂。言わば上手に愚かさとじゃれ合う魂なのだ。
これは本当に力加減が難しい。一歩間違えれば無法地帯になってしまうし、どこまでがセーフでどこからがアウトなのか明確な指標はない。愚かさの力加減なんて授業でも教えてもらえない。
なのにアカシアではそれが成立していた。何故か?先生方が教育のプロだからというのももちろんあるだろう。入学してくる生徒たちがわきまえているからというのもあるだろう。そしてやはり長い歴史と伝統が持つ力、アカシアの神様が見守ってくれているおかげというのも大きいと思う。
高校3年の9月まで体育祭準備に明け暮れていたかと思えば、その半年後にはちゃっかり…いや失礼、しっかり難関大学に進学してしまうアカシアの生徒たち。自由な挑戦の中で自分の特性を知り、やりたいことや好きなことを見つけ、それを踏まえた進路を決めて志望校に受かる、そして将来再会した時には語り尽くせない思い出が溢れている。
ああ、そんな学校あるはずがない。あってよいはずがない。でも…あったのだ。
4.燃やし難くなった魂
近年は以前よりもアカシアの学校祭が縮小していると聞く。時勢を考えればそれも仕方ないことと思う。いくら節操・品位・自己責任をもってしても、それ以上の脅威に子供たちがさらされていることは今の仕事をしていてもひしひしと感じる。さり気なく見守るなどでは不十分、先生方もしっかりリスク管理をせねば子供たちを守りき
れない…それほど大変な時代が来ている。
でもね、やっぱり少しは燃やしてほしいなアカシアソウル。子供たちはいずれ成人し社会に出ていく。その時に挑戦や失敗の経験がなければ、やりたいことや好きなことがなければ、きっと心は折られてしまう。
僕は教育者ではないけれど、自分の仕事の中でアカシアソウルという心の在り方も存在することを伝えていけたらと思っている。
5.研究結果
アカシアソウルを燃やしてみれば、運命開化の音がする。
わきまえて愚かなれ。
平成31年3月17日 福場将太