音楽部とMJ

大学受験のシーズン。そんなわけで2月の当サイトは勝手に大学時代の強化月間としてみよう。

東京で過ごした僕の大学時代の思い出はなんといっても部活だ。所属したのは音楽部と柔道部、日々の生活も人間関係もこの二つの部活を中心に回っていた。

今回の研究コラムは音楽部、そしてそこで出会った一人の天才について書いてみたい。

1.軽音楽部ではなく音楽部

医大の音楽部なんて所詮学生のお遊びだろう、そんな僕の予想は実際に入部してみると大きく覆されることとなった。確かにそこにいる部員たちは大前提として医学生だ、ミュージシャンを夢見て上京しバイト暮らしをしながらライブやオーディションでデビューを目指しているわけではない。しかし音楽を愛する気持ち、情熱や真剣さはけして負けてはいなかった。技術や感性だってそこらのインディーズバンドと比べてもひけをとらない者もたくさんいた。

そしてここはサークルではなく伝統ある『部』であることにも驚かされた。キャプテンは主将と呼ばれ、マネージャーは主務と呼ばれる。正式な場では部員はちゃんと正装して錚々たるOBたちに礼を尽くさねばならない。僕が入部した時点で既に五十年以上の歴史があり、今は軽音楽が主体でもかつてはジャズやミクスチャーが主体だった時代もあった、だから軽音楽部ではなく音楽部。けしてお遊び気分でやれる部活ではないのだ。

では当時の主な部活内容をちょっと紹介してみよう。まずは夏と冬の定期ライブ。大学近くのライブハウスを貸し切って行ない、部員で結成した5バンドほどが出演する。お客さんは学友や関係者が主体で、多い時は百人近い時もある。日々の部活はこのライブに向けてのバンドごとの練習である。1年生夏のライブでデビューし、4年生冬のライブで引退する。

また夏休みには合宿もあり、スタジオ付きのペンションで一日中演奏に明け暮れる。音楽部に入るまで、僕はそんな宿泊施設があることさえ知らなかった。特に山梨県のキャメロットには何度も行ったが、プロミュージシャンたちが若かりし頃に練習に来ていたレアな写真が飾ってあってびっくりした。

そして秋には学園祭でのライブ。合宿や学園祭ではいつもの定期バンドとは違う企画バンドもたくさん結成されるので非常に面白い。引退した5・6年生も出演できるので返り咲きの場でもあるわけだ。

時には卒業生たちが出演するOBライブなんて企画まである。医者として日々忙しく過ごしているおじさんたちがその時だけは青年に戻って意気揚々とステージで飛び跳ねる。正直、自分が学生の頃はそんな姿を見て複雑な気持ちだった。でも今はその笑顔の意味が痛いほどわかる。

また僕が所属した頃はちょうど近隣大学の音楽部との交流が盛んになってきた時期でもあり、他大学との合同ライブや合同合宿もどんどん行なわれた。出演者として、あるいはお客さんとして、全部に参加していたら毎週のようにライブがあるような状況であった。

さらには大学の枠に留まらない部員もいて、学外のライブ活動でファンを増やしたり、プロのミュージシャンのバックバンドにバイトで参加したりしている部員もいた。もちろん医学生としての学業もしながらの話である。

ああなんて熱くて忙しい人たち。僕は自分の浅はかさと未熟さを思い知ったのである。

2.その名はMJ

まあそんなわけでただの学生バンドに留まらない部員も多かった我が母校の音楽部なのだが、その中でも群を抜いていた人がいる。僕はその人のことをMJと呼んでいた、というより本人がそう名乗っていた。性別は男、もちろん国籍は日本人である。

演奏の技術や感性が際立っていたのも確かだが、それ以上に彼の音楽に対する姿勢・信念・考え方は「どうしてあなたは医学部にいるんですか?」と思わず質問したくなるほどスケールの大きなものだった。

僕が入部した時、先輩であった彼はすでにいくつかの伝説を残していた。彼は入学式において学長に「僕は医者にはなりません」と高らかに宣言したという。

数々の楽器を弾きこなし、しかもそのステージパフォーマンスがすごい。キーボードを演奏すればまるで猫が引っかくように両腕を素早く動かし鍵盤を弾く。さらにはナイフを鍵盤に突き立てたり、自らキーボードの上に横になりゴロゴロ転がることで全身で鍵盤を弾くなどした。ベースを持てばまるで何かに取り付かれたかのように全身を躍動させリズムをとる。僕もそのステージを見た時は驚愕した。ギターでもドラムでもとにかくMJの瞳はどこか人智を超えた色を放ち、常人ではないオーラをまとっていた。

彼は言う…「演奏していると音楽の神様が降りてきて、どんなふうに演奏しても絶対ミスしない状態になることがある」と。

3.超人か変人か

…まあここまでお読み頂き、「ただの音楽オタクの変人じゃないか」と思った方も多いだろう。実際に彼は学内でも部活内でも少なからず浮いた存在だったと思う。でも僕は医学部という閉鎖世界の中で、無言に敷かれている数々の常識にとらわれず、定型を打ち破るその姿に強い魅力を感じた。
コピーバンドよりオリジナルが好きだったこと、映画『BACK TO THE FUTURE』の大ファンだったことなどが共通して、僕はMJに可愛がってもらえることとなった。

MJは僕に音楽の楽しさをたくさん教えてくれた。こういうふうに弾けばこういう効果が出る、この音をルートにすればこの和音はこういうふうに解釈できるなどなど、技術から理論に至るまでMJから学んだことは本当に多い。バンドも一緒にいくつかやらせてもらったが、MJと組むとただの企画バンドだったとしても必ず学ぶことがある。そしてさらに音楽が面白くなる。

本当にこの人は音楽が好きでたまらないのだ。ある時はトランプを使って出たカードによってコード進行を決めるという挑戦をしたが、出来上がって演奏した時彼はあまりの面白さに床に倒れて笑い出しそのまま失神してしまった。またある時は合宿先でどこかで手に入れた外国の民族楽器を鳴らしながらペンション内をさまよい、不審者と間違われた。自分一人で何重ものコーラスを多重録音した大合唱を用意してきたこともあった。

プログレシブロックを特に好み、彼が作る曲は拍子もメロディも一筋縄ではいかない。そのため彼とバンドをやり過ぎると、一般的な4拍子や3拍子が逆に気持ち悪くなるという減少が部員内に起こったりもした。

彼の家に遊びに行くと、部屋はベッドの上まで楽器や機材でいっぱい…一体どこで眠っていたのだろうか?

そしてMJにごはんをおごってもらった時、「ご馳走様でした」と伝えると彼はこう答えた…「音で返せ」と。

4.MJが見ていた遠い空

正直、MJの求めていたもの、伝えようとしていたことは完全に周囲の理解を超えていた。試験前だというのにスタジオに入ってレコーディングしたり、病院の食堂で突然ベースを弾きだす姿に眉をひそめる者が大多数だったのも無理はない話だ。

でも、彼にはそんなことどうでもよかったのかもしれない。自分が好きなことをただ全力でやる。それは呼吸をするのと同じように彼にとっては当たり前のことだったんだろうから。

MJの言葉で一番印象に残っているのは…「たとえ体が動かなくなっても何とかして自分は音楽をやる」。僕はその情熱を心から敬愛している。

みんなといる時もいつも遠い目で虚空を仰いでいたMJ。誰かに似ているとずっと思っていたが、今はそれが誰なのかはっきりわかる。このエキセントリックさ、チャーミングさはあの人しかいない。そう、『BACK TO THE FUTURE』に登場する天才科学者ドク・ブラウンその人である。僕はドクが発明したタイムマシンに乗せてもらい、数々の騒動に巻き込まれ、最高の旅をさせてもらったのだ。

5.音楽の神様

大学を卒業してもう随分時間が流れた。今でも時々MJが作ったCDを聴くことがある。そこには彼の楽しそうな音が詰まっている、彼の一生懸命が詰まっている。
この知られざる天才が現在どこでどうしているかは…まあ言わずもがなというものだろう。

懐かしく思い出す。僕が部室を訪れると大抵そこにいたMJ。もう誰も弾かない古いピアノに座り、優しい瞳で楽しそうに、時にはどこか淋しそうに…タバコの灰まみれになって鍵盤を弾いていた。もしかしたら彼は音楽の神様の生まれ変わりだったのかもしれない。僕が今でも音楽を好きでいられるのも彼の魔法なのかもしれない。

ありがとうMJさん。いつかあなたが褒めてくれる曲を作ってみせます。なのでいつまでも僕のヒーローでいてください。

そんなことを考えながら、近々音楽室にアップする予定の懐かしい音源を編集している。

平成31年2月7日  福場将太