人生にはやたらと終わりを感じる年がある。その最初の記憶は1998年。高校最後の年だったから当たり前といえば当たり前だったのだろうが、部活、委員会、文化祭、体育祭、そして授業…いつもそこにあった日常風景が一つずつ幕を下ろしていった。18歳の誕生日を迎えた日にずっと好きだったラジオ番組が最終回を迎えたのも印象に残っている。多くの青春を舞台にした物語の主人公は17歳に設定されているが、自分はその時期を過ぎたのだなと痛感した。学校外のことで言えば、ずっと通っていたカレー屋もこのタイミングで閉店した。重なる時は重なるというのか、まるでテレビドラマの最終回で急に登場人物たちの周囲が別れに向かって慌しくなるような、そんな不思議な寂寥感だった。
それから二十年が経った2018年、僕は再びあの感慨に襲われた。そう、終わりを感じる出来事が数多く起こったのだ。
子供の頃から見ていたテレビ番組の終了、多くの楽しみを与えてくれた著名人たちの逝去、戦後最大のテロ事件の刑執行、母校の不正入試問題、廣島と北海道を襲った自然災害、150年以上も続いた母方の実家の病院の閉院。平成という時代が終わるのだからこれも当たり前なのかもしれないが、二十年前のあの時のように、また一つの時代が幕を下ろすのだと強く感じた。
そんな終わりのさなか、僕はおそらく生涯忘れることのない講演をした。今回はそれを振り返ってみたい。そしてこれが、このサイトを開設して最初に書く原稿である。
1.きっかけはいつも偶然
自分の障害を受け入れる、それはとても難しいことだ。とくに進行性の病気の場合、将来そうなると言われても現時点で困って居なければどこか楽観的・回避的になってしまう。僕も視力が本格的に低下するまでは自分の病気を他人事のように思っていた。
しかしいよいよ生活や仕事に影響が出てきた頃、僕はインターネットで同じく視覚障害を抱えて働いている精神科医がいることを知った。その先生を訪問し、お話を伺い、そしてその先生も所属しておられる『視覚障害を持つ医療従事者の会』に誘って頂いた。初めてその集いに参加した時は居心地の良さを感じると同時に、馴染んではいけないとどこかで反発する気持ちもあったように思う。
それから数年が経過した2018年1月。その会の関東地区勉強会で僕が話をすることになった。持ち回りで講師を務めるのだからこれ自体はさほど特別なことではなく、僕も自分の精神科医としての知識と経験を少しでもみんなに伝えられたらぐらいに思っていた。
しかし当日、会場に行って聞かされた言葉から人生がにわかに動き出すことになる。「○○先生もいらっしゃいますよ」…最初はピンとこなかった。その名前は数人思い当たるが果たして誰がこの勉強会に?
再会してすぐにわかった。それは学生時代の先輩であった。大学は別だったが、同じく音楽部と柔道部に所属する医学部の先輩。当時は坊主頭だったので仲間からは「和尚さん」の愛称で親しまれていた。ここでもそう呼ばせて頂きたいと思う。
和尚さんに会うのは卒業以来だから十年以上ぶりとなる。現在は山梨県で実家の眼科病院を継いでご活躍中とのことで、たまたま僕が勉強会の講師をすることを小耳に挟んではるばる東京まで来てくださったのである。
この再会が全ての始まりとなった。
2.視覚と心
勉強会そのものはつつがなく終了し、その後昼食の席で久しぶりに和尚さんと語らった。学生時代の思い出にも花を咲かせたかったが、まあ酒の席でもなかったし話題は自然と仕事のことになった。和尚さんは僕の病気については学生時代から知ってくれていたが、あれから病状が進行して今はほとんど見えなくなったと伝えても昔と変わらない接し方をしてくれた。そして、眼科の患者さんの中には視覚障害のために心の健康まで失ってしまう人もたくさんいると教えてくれた。その人たちは精神科や心療内科では対象外とされてしまいやすく、かといって眼科で心のケアが十分にできるわけではなく、心を閉ざして一人苦しんでいることが多い。だから視覚障害の当事者でもあり、心を専門とする医者でもある僕に意見を聞きたいことがたくさんあるのだという。
昼食の席だけでは十分なお話はできなかったので、こんな自分でよければいつでも連絡くださいとだけお伝えして北海道に戻った。
それから数か月。和尚さんから連絡があり、今度山梨で行なわれる講演会に一緒に出てほしいとの依頼だった。数年前の自分だったら二の足を踏んでいたかもしれない。しかし、誰かの抱える障害が誰かの力になれるということを仕事の中で何度も経験していた僕は自分でも驚くほどすんなり了解することができた。むしろこんな自分だからできる講演もあるのかもしれないとワクワクする気持ちにさえなれた。
3.そして講演へ
障害を抱える者がそのことを前面に押し出すことで生じる『嫌な感じ』は必ずあると思う。正しい権利や事実を主張していたとしても、それが強過ぎるとどうしても受けた人は眉をひそめる。障害を笑いに変える人もいるが、それも一歩間違えればとても痛々しい姿になって映る。悲劇のヒロインになっても喜劇スターになっても鼻につく。だから障害のことはできるだけ語らず黙して何ともないふりをして生きるのがベストだとこれまで僕は思っていた。今でも日常においてはそう思うことが多々ある。
でも今回は講演会。話をするための企画だ。聴きにきてくださるのも同じ病気の当事者さんやその支援者の方々。だから多少鼻についたとしても、それ以上に何かが印象に残る講演にしたいと思った。
そして自分なりに練り上げて挑んだ11月18日。会場は山梨県甲府市。まずは和尚さんが網膜色素変性症の最近の話題をとてもわかりやすく、なおかつ楽しく講演してくださった。続いて僕が登壇。当事者として、そして精神科医としてこの病気とどう向き合うのがよいかを話させてもらった。もちろん僕は当事者としても医者としてもまだまだ未熟。目指したのは答えではなくヒントを示す講演。当事者としての自論を述べつつも精神科医としての医学的論拠も添え、主観的になったり客観的になったり、前向きになったり後ろ向きになったり、深刻になったりおちゃらけてみたり、とにかく色々な要素を含有させてみた。終わってみれば結局何が言いたかったのかという感想だったかもしれない。でも今回はこれでよかったと思うことにしよう。聴いてくださった方が、共感でも反感でもいい、何か一つでもお土産を持って帰ってくれたのなら嬉しい。
4.今は信じて
今回の講演は当事者としての初めての講演だった。これまでも精神科医としての講演の中で自分の障害を引用したことはあったが、あくまで精神科医として語っていた。しかし助けがなければ生活も仕事もできない状態になった今、もう障害を隠したり否定したりする段階ではない。むしろその障害のおかげで出会えた人たち、学べたことたちがたくさん人生を彩っている。随分前からそうだったのにどこかで意地を張っていた。今は素直に病気に寄り添える気がする。
帰りの飛行機の中、たまたま隣に座っていた人が荷物入れからバッグを取ってくれた。たまたま後ろに座っていた人が「子供が小さいんで騒がしくてすいません」と声をかけてきた。人は迷惑をかけたりかけられたりしながら暮らしている、それでいいのかもしれないとなんだか心が楽になった。
きっとまた障害がたまらなく嫌になる日もあるだろう。今回の講演で偉そうに伝えたメッセージを全部疑って一人で心を閉ざしたくなる日もあるだろう。それでも今はこの新しい人生を歩いてみようと思う。平成が終わって新しい時代が来るように、終わりは必ず始まりに繋がると信じて。今回の講演会は僕の人生において、終わりと始まりの接続点だったのだ。こんな機会を与えてくれた和尚さん、本当にありがとうございました。
このサイトも始まりの一つの証。公開日は2019年元旦、福場将太の新時代の幕開けである。こんな我侭なホームページの立ち上げにご尽力頂いた竹花さん、そして竹花さんを紹介してくれた友人でありスーパー眼科医でもある三宅啄くんにも心から感謝をお伝えします。
不快だという人もいるかもしれない。大いなる間違いかもしれない。でもそれは覚悟の上。結果はまだわからない。今はこの可能性に賭けてみたい気持ちでいっぱいだ。
和尚さんに送って頂いたとろろ芋をで年越し蕎麦を食べながらそんなことを考えている。
平成31年1月1日 福場将太