母校はアカシア

僕は母校を愛している人間だ。とっくになくなってマンションが建ってしまったさいび幼稚園も、別の学校と統合してその名を消した五番町小学校も、最近不正入試問題で物議をかもした東京医科大学も、振り返れば懐かしさと愛しさが込み上げる。中でも十代の多くを過ごした広島大学附属中・高等学校は、アカシアという通称と共に僕の人生においてもはや母校という言葉だけでは表現できないほど重要な存在となっている。
その思い出は一晩かけてもとても語り尽くせないし、与えられた物はどんなに感謝してもけして十分ということはない。出身校に対して、あるいはそこで過ごした青春時代に対して、こんなふうに思えるのは実はとても幸福で恵まれたことなんだと気付いたのは随分年齢を重ねてからだったように思う。
JR広島駅から5番線の市電に揺られて20分あまり、翠の町で今もたくさんの子供たちを育んでくれている我が母校。ここではアカシアについても研究してみたい。

1.神の選択

もう25年も前になってしまうが、初めてアカシアの門をくぐったのは中学受験の時である。正直学科試験の時の記憶は全くないが、後日二次試験として再び訪れた時のことはよく憶えている。一次試験合格者とその保護者が講堂にひしめき合い、そこには緊張と期待が入り混じった独特の雰囲気が立ち込めていた。その講堂自体も学園ドラマに登場する体育館とは全く異なる代物で、入口の床には皇紀で年号が記され、両手を広げても抱え込めない太い柱が左右に立ち並び、二階席は一階席を取り巻くように正面舞台に口を開くコの字型…。劇場、そうまさにその言葉が一番しっくりくる。アカシアの講堂はオペラ座の怪人に出てくる古井劇場のようだった。
そんな場所ではたしてどのような二次試験が行なわれるのか、みなさんは想像が及ぶだろうか。ヒントは舞台の上には校長先生がいるということ。もちろんこの大人数で集団面接というわけではない。その答えは『抽選』、近年はさすがになくなったらしいが、なんと当時のアカシア入試の二次試験は公然の抽選会にて行なわれていたのだ。
正直子供心に戸惑いはあった。学科試験なら勉強を頑張って対策できるし、不合格なら実力不足だったのだとあきらめもつく。しかし抽選ではどうにもこうにも頑張りようがない。せいぜい日頃の行ないを良くすることくらいしかできず、不合格だったら自分の運を悔やむしかない。とはいえ所詮は中学受験。大学入試と違って落ちたら浪人というわけではないので、動揺しつつも楽しんでいたように思う。
方式はおそらくこんな感じだった。まず男女に分かれて一人ずつ壇上に上がり箱の中から番号札を引きそれを記録してもらう。そして全員が引き終えると、箱の中には二枚の番号札が残る。この二枚というのがミソであり、ここからどちらか一つを校長先生が引くのだ。そしてその番号が『校長番号』となり、そこから並び番号で規定人数が合格となる。例えば校長番号が30番なら31番から90番までが合格、91番から120番までが補欠といった具合だ。
校長番号が発表された時に上がった感嘆と落胆の声は今でも何となく憶えている。ちなみに僕の感想は「あ、受かった」。けして勝ち取ったわけではない勝利、充実感や達成感には程遠く強いて言うなら安心感くらい。こんな微妙な合格発表があろうか。

2.祝われた子供たち

見方によってはあまりにも理不尽な、でも別の見方によってはこれ以上ないくらい公平な二次試験によってアカシアへの合否は決まる。でもどうしてアカシアはこのような入試制度を伝統的に行なっていたのだろうか。
推測でしかないが、もしかしたら学業成績だけで選ばないことによる生徒の多様性を重視していたのかもしれない。二次試験が抽選である以上、一次試験が満点トップでも不合格になるし、一次試験が合格ラインスレスレでも二次試験はトップで受かることもありうる。成績上位者から順に合格させた時とは大きく異なるメンツになるのは明らかだ。
そういえば入学式の時、あの抽選で受かった人たちなんだなと同級生に妙な親近感と一体感を覚えた。生徒の個性の幅が広い、これはアカシアが最も重視する自由な校風にも大きく寄与していたのではないだろうか。それに学校自体が学業成績をある意味否定するような入試をやることは受験戦争に対するアンチテーゼとも思える。入試の時点で勉強が全てではないことを子供たちは思い知ることになるのだから。
名門校として大学合格率なんぞを考えたら成績順で入学させた方が明らかに有利な気がするが、あえてそうしない心意気、それでいて周囲の進学校に負けない成果を出してしまうのだから、ここにアカシアの奥深さを感じずにはいられない。

3.受け継がれる意志

偶然か運命か、とにかくアカシアの神様に導かれてその生徒となった僕だが、実は当初は別の中学を考えていた。もちろん真剣に進路を考える頭はなかった。単純に塾や小学校の同級生が多い別の中学の方に行こうと思っていた。実際に親や友達にもそう話していたはずなのだが、気付けば僕はアカシアにいざなわれていた。
黒幕は父方の祖父である。祖父はアカシアの出身で同窓会から送られてくるアカシア会員名簿や機関誌を愛読し式典への参加や寄付もいとわない生粋のアカシア愛好者であった。言うなればヘビーアカシアン。しかし息子たちは誰もアカシアに行かずその時はかなり不機嫌だったらしいが、孫である僕が受かった時はたいそう喜んでくれた。そして親たちとどのような話し合いが行なわれたのか知る由もないが気付けば僕は祖父の後輩となっていた。
くり返すが所詮は中学受験、絶対にここじゃなければといったこだわりも特になかったので僕はそのまま通い続けた。それどころか卒業後もアカシアに足を運び、進路に迷っていた従姉妹にアカシアをお薦めし、開校100周年式典に参加し、そこで購入したDVDやCDをヘビーローテーションし、こうやって研究コラムまで書いてしまっているのだから、僕もまたヘビーアカシアンになっているのはもう否定のしようがない。
人生は一度しかないので他の選択をした場合と比較することはできないけれど、それでも中学・高校時代をアカシアで過ごせてよかったと心から思う。祖父にも、先生方にも、学友にも、そしてアカシアの神様にも感謝でいっぱいである。

4.アカシアからの贈り物

改めて考えると、今の自分を支えてくれている多くの物はアカシアから与えられている。特に視力をほぼ失った後でもこうやって絶望せずに暮らせている、それどころか楽しく生活できているのはアカシア時代に手に入れた物のおかげによるところが非常に大きい。
パソコンのブラインドタッチは部活、音楽の楽しさは文化祭のバンド、小説の楽しさは図書委員会、イベント運営の楽しさは体育祭で学んだ。たくさんの思い出とそれを共有できる仲間も与えられた。そして何より、自分たち次第で毎日は楽しくできるということを教えてもらった。
自由とは一歩間違えれば大きな事故や荒廃に繋がる危うい理念。それでも生徒たちにそれを与えてくれ、無鉄砲な情熱を許してくれ、行き過ぎた時にはそっと戒めてくれたアカシア。その恩恵は今でもひしひしと感じている。
そんなわけで触りだけでも長くなってしまったので今回はこの辺で。ここはアカシアファンサイトというわけではないが、そうなりかねないくらい母校への思いも研究していきたいと思う。

平成30年9月2日  福場将太